私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

スポンサーリンク

私たちは、税理士試験の適正化を要望します
このblogのおすすめ記事

今週の振り返り

ふう。今週も一週間良く頑張った。あとはテスト受けるだけでほとんどの単位は取れるんだから最後までしっかりやらなきゃ。

しかし寂しい。根本的に。話しかけても返事が無い。無視されてる。けどあきらめない。落ち込んではいないつもりだけど心ここにあらず。思い悩んで図書館でぼーっとして気づいたら2時間とか。

この一週間、10分以上喋った人が誰かいたかな。先生も忙しくてアポがないと会えない人ばかりだし。一番親身になって話したのはドコモショップのお姉さんだな。どうかしてる。あぁ、留学生Cのエントリーシート書くのを手伝ったくらいか。

2つの合同発表会でプレゼンしてた時が一番イキイキしてたんじゃないか。まぁそのどちらも前の人間が押してきた割を食って万全の体制でできなかったわけだが。単純にこれは準備不足。チームワークが無いのが最大の欠点。クラス内で一度も通し読みしてないんだからしょうがない。

そうだ、一人面白い人間を見つけた。前から気になってはいたが今日のプレゼンは異彩を放ってた。フィールドワークで見た野鳥の紹介で「この方は水辺にいらっしゃる・・・・」。彼はいいキャラしてる。言わばサカナ君の野鳥版。

相変わらずプレゼンの場で知らない学生に、先生だと思われてたとか。これは慣れてるので気にしない。

外来診療の限界と薬の効果

少し回復してきた。しかしこの寒さ、異常だろjk 


病院に行ってきたのだが、予約の時間より遅れて診療が進行していて、医師はしきりに早めに切り上げたそうな様子が垣間見えた。私としては、ここしばらく調子が悪かったのでその間のできごと等話すべき内容はいつもより多かったはずだ。言いたいことは伝えなきゃと、必死に頭を働かせて診てもらって来た。何しろ1回飛ぶと次は2週か3週先、短時間でしかもよく頭が働いていない状態で適切な情報を伝えるのは結構大変なのだ。前の方で診療が長引いた人がいたのだろう。だがここで私が自分の分だからと目いっぱい使ってしまうと、また後の人の時間を削るのに医師は注力することになってしまうだろうから、不満足ではあったが早めに終えた。そのあたりは日本の一般的な精神科外来の限界というか、診療報酬等含めた医療システムの設計の欠陥だわな。


それで、どうも医師曰く、薬の飲みが足りなくなると低調になる傾向にあるんではないか、と。ううむ。2年間ほど薬を飲んできて正直なところ、薬効の実感は全くといっていいほどないのだが、結構影響しているのかもしれない。確かに振り返ってみると12月あたまから忙しくなってきて生活のリズムが乱れ、変な時間に寝たり酒を飲むものだから薬が空いてしまったり、飲むのを忘れたりしていた。一日飲まなかったからと言ってすぐに調子が悪くなるわけではないが、何日か続くと悪くなるのかもしれない。

無理

厳しいな。24時間以上寝ている。食事は昨日の朝名古屋駅で新幹線乗る前にきしめんかき込んだのが最後か。神戸で授業に出て、帰ってからはチョコレートとビーフジャーキーを食べた。食べ物あるけどたべる作業がめんどくさいんだよね。

さっきお茶碗にご飯を少し食べた。ツナ缶とビールを飲んで、疲れたから布団に入った。


厳しいな。最悪のシナリオが浮かんだよ。このままひきこもって大学に行けなくなってテストも受けられなくて全部落とすよ。2007年秋学期の再来だよ。俺今学期全教科S評定とるつもりでやってきたのにな。こっからのがんばりしだいでいけるはずなのにな。無理かもしれんな。これとれなかったらもう大学にいる意義ないんだからやめるだろうな。かといってほかにできることがある訳じゃないし俺の人生お終いだな。

やっぱり俺定期的に落ちるんだよ。精神の安定たもてないんだよ。こんなんじゃダメだな。これから海外にでようと思ってたのに、こんなんじゃ絶対ストレスでやられるよな。


ふざけんなよな。何のために名古屋まで医者通ってんだよな。何も変わってないじゃんか。しんどいままだよ。楽にしてくれよ。

いろいろぶっちゃけすぎだよ最近俺。はなすあいてがいないからな。ここに書いても何も変わらねーよ。泣きてえ。もう泣いてるよ。

あー疲れた疲れたつかれた

携帯がぶっ壊れた。金払って修理するのも馬鹿らしい。修理してもデータ吹っ飛ぶかもしれないなら新しいの買ったほうがいいじゃんか。代わりの端末を安く手に入れたい。でもよくわからん。今頭使いたくない。何でこんなときに。もう知らん。携帯なんか使わない。ああでも不便だ。泣く。
1限から授業、はまだよかったけど図書館にいたけどぜんっぜん頭に入らなかった。ダメだ。進まない。
腹減った。ご飯食べるのめんどくさいめんどくさい。店によるのもいやだったから何も買わない食料が無い、もう外に出たくないよ。寒い、寒いサムい布団から出たくない。いやだいやだこうやって一日が終わるのはいやだ、泣きたい泣くもうなんなんんだ

なんかmixiのデザインが変わった。勝手に変えんな馬鹿。気持ち悪い。
レポートがあああ。テスト勉強があああああ。終わらない終わらない終わらない。鬱だ。


ああああああ鬱だ鬱だ鬱だ鬱だ鬱だ

私の嫌いなもの

最近よく書くのだけど、私は嘘を付く人間が嫌いだ。

騙そうという悪意が無くとも、自分の言ったことを守らない人間、適当にでまかせを言う人間、そういう人間は本当に信用できない。分からないならわからないと言うべきだし、事情が変わってできなくなったのならそれをきちんと相手が納得するよう説明するべきだ。

空気を読むことを強要する社会も嫌いだ。本当に害悪だと思う。相手に気づかせるという方法が、時に有用な時もあるけれど、外れたものをいじめの対象にしたり、積極的で建設的な議論を抑制したり、負の側面が大きすぎる。 誰も望まない空気に支配されたりして不幸だ。

相手を傷つけたくないのではなく、自分が悪者になりたくない人間

で、なんだろう。その場を繕うための詭弁とか、お世辞とか、全部なくなればいい。

よくあるのが「予定があったら(時間があったら)行く」とか、とりあえず言う人。本当に予定がどうか分からなくて言うならいい。でも大体分かる。本当はその時点で行けない(行く気が無い)と思っても断ったら悪いから、行けるようなふりをしたんだろうな、と。

いや何も、出会う人で会う人けんか売って歩く必要は無いから、いちいち反論するべきと言っているのではない。それではこちらがまいってしまうから、黙っておけばいい。でも何で思ってもいないことを言うの?相手を褒めたりいい気分にさせるために言うなら、事実だけを言えよ。相手にいいところがなさそうに見えても、がんばっていいところ見つけるとか言い回しをすごく工夫して褒めてるように見せろよ。

結局それは、相手のことを思いやってる訳じゃなくて、相手を傷つけることで自分が悪者になりたくない、罪悪感を持ちたくない、という利己的な考えだと思うんだよね。だからその場だけはいい顔をしておく。それは優しさではない。

そんなことされると私はもっと傷つくんだよ。人が信じられなくなる。笑顔で話していても本当は正反対のこと思っているんじゃないかとか、今話していることをすごく不快に思っているんじゃないかとか。

どうでもいい相手にどうでもいい話してるときはそんなものなのかね。真剣に話してる相手に対してそれはないと思うぜ。

私には言外のニュアンスを慮るのがすごく難しい。非言語的なコミュニケーションが苦手なんだろうな。

口だけ友達ヅラする人間

何でもない人に「友達だよ」と気軽に言ってしまえる人も信用できない。だって本当にそんな風に思っていないに決まっているんだから。私は比較的いろいろなことに興味があるし、興味を持った人には積極的に話しかける性格だと思っている。でも少し話したり、会えば挨拶をする仲だからってそれは、友達ではない。せいぜい「知り合い」レベルだろう。同じ組織に所属していたり少し知っているからって友達と呼ぶことにはすごく抵抗がある。友達でなくても、一緒に遊びに行ったり、何かちょっとしたことで助けたりすることは十分あり得る。それは友達に対してではなく、世間一般の人々に対してそうなのだ。

何もないところで「あなたの友達は誰ですか?」って聞かれて挙げるときにたぶん私の名前は出てこないのだろうと思う。じゃあそれはやっぱり友達だと認識していないということだ。それなのに面と向かっていると友達と言えてしまう、その感覚がわからない。

私が一定の期間調子を崩していたのを知って、「心配したんだよ」と言ってくる人がたまにいる。心配してくれただけでもいいのかもしれないが、それが何なのだ。心配していたけども、結局何もしなかったじゃないか。

ちょっとやそっと体調が悪かっただけじゃない。もうぶっちゃけてしまえば、私が本当に人生に対して絶望と危機感を抱いていて、どうやって自殺しようか本気で考えていた時に、それをblogで見て知っていて尚、結局何もアクションを起こさなかったじゃないか。何ができるかわからなくたってとりあえず話しかければいい。それすらもしなかったのは個人的に関わりを持ちたくないと言う意思表明に他ならない。

あるいは仲間内の雑談の中で私のことが話題に昇ったのかもしれない。でもそれは私の苦闘を話題として消費したに過ぎない。心配したんだよということを互いに確認して、それで満足して特に何ができるかということを検討することもなく、何もしない、という選択に決定したのだ。友達のことを心配する慈愛のある私たちという、自己像に酔っているだけであり、実のところ何も知らなかった赤の他人と大差ない。

私としては、友達だと言う認識のない人にあまりにしつこく頼るのには抵抗があるから、少し話しかけてみて反応が芳しくなかったらこの人は聞いてれくれるつもりがないんだなと判断して以後、私の内面を話すことはない。それが私の他人に対する良心だと思っている。そうやって一人一人切っていって結局誰も残らなかったのだ。

私に友達がいないという事実に怒っているのではない。私のことを友達だと認識していないのに、そういった認識に伴う行動をしていないのに、友達ヅラする人間が理解できないのだ。別に最初から特に関わりがなかった人を恨んだりはしない。いや誰に対しても、恨むという感情を持つことが良い結果をもたらすとはあまり思わないから、基本的に誰も恨むことはない。だが、「友達だよ」「いつでも相談にのるよ」と言ってくれていた人間がサーッと私の前からいなくなったことに対して、口だけだったんだな、と認識を新たにしただけである。



(10/1/16追記)

話す相手がいることの重要性

結局19時過ぎまで起きれなかった。汗びっしょりになった。結局今日やらねばいけないタスクが何一つできていなくて絶望的になる。締め切りすぎちゃったし。

ビールを飲んで、iPhoneiPod touchについて調べた。ゲームや音楽はたぶん使わないけど、考え事をしたときにすぐに残しておくための入力デバイスとネットを見るのに良さそうだ。携帯との併用になるが、スマートフォンガラケーより汎用性が高く使いやすそうで、ノートPCを持ち歩かなくても良くなるかもしれない。明日iPod touchを買ってこよう。




一通り調べたら疲れてまた寝た。それから23時過ぎ、COSMOの時の同期と電話で話した。今、気持ちが下がり気味なこととか、何がしんどいとか聞いてもらった。

最初うまく話せなくて(言語化ができなくて)ひねり出てきた言葉を吟味してみたら、自分の悩みが中二病っぽいことのように思えてきて苦笑。つまり、自分だけが特別な苦闘をしているんじゃないかという悩みが、客観的に見てみたら若さゆえに多くの者が通る青い考えだったりして。まぁこれは、自分は他の人とは違う特別な存在である・ありたいという、一般的に人なら誰もが持っている心理だとは思う。で、話していくうちに中二病的でない他人との考え(感覚)の違いも判明。

しかし、考えが少し整理できた気がする。人に説明しようとすることで、自分の中で考えが氾濫してうじゃうじゃしている部分(言語化できていない部分)を論理的に組み立てる作用があると思う。

私が必要としているのはこれだ。友達がいなくて困るのはその相手がいないと言うこと。アドバイスが欲しいとか、解決法を提示してもらいたいとか、高度な欲求でなくて何より、単に話を聴いてもらえるということが重要なのだ。(それも壁に向かって話していては意味が無いので、適度に相槌を打ったり引き出したり、話の交通整理ができる相手である必要があるが。)

だけどまぁ話を聴くだけでも大変なのだろうか。大変なんだろうな。私は人の話を聞くのは好きなので、全然自分とは違う考えでもとりあえず面白がって(興味本位で)聴くが。



聴いてもらえてよかった。ありがとう。