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私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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My will (or something instead of suicide note)

こころの記録

ここ数年、誕生日には死のうと思っている。これほど絶望する日もないからだ。たくさん寄り道をして、進んだり戻ったりゆっくりゆっくりやってきて、もう25年も生きてしまったのだ。ぞっとする。なんて無能なんだ。あきらめてはいけない、へこたれてはいけないと自分を奮い立たせてやってきて、比較的順調なときは上手くできているような気がしていた。思い込みだった。また、投げ出したのだ。

全てを投げ出し諦めることで少し楽になった。この部屋に引き篭もって何日過ぎたかな。14日の金曜日からか。15日経った。確かに激しい感情の波から少しだけ遠ざかって穏やかではいる。
とても悔しいけど目標を捨てた。もう会いたい人にも会えなくなる。行きたいところを見て回ることもできず、美味しいものも食べられない。だが仕方がない。自分で、生きるのを諦めることにしたのだから。生きることの方が辛いんだからしょうがない。

私は私の、あまりの人間関係の築け無さに絶望したんだ。


人とうまくやっていく、人間関係を良好に保つということは、生きていく上で非常に重要な要素だと思う。全てとは言わないが、これをどのように行えるかがその人の生き方に大きく関わってくると言えよう。なぜならば一つには、人間が社会的動物であるということであり、本質的に他者からの承認を欲求していることがあげられよう。孤独であることに自身が対処できなくなったとき、精神的に悪い影響を与え、鬱などを引き起こすという生理的な問題である。これには性格的な個人差もあるだろう。

もう一つは、昨今就職に当たってもコミュニケーション能力を問う声が非常に大きく聞かれるように、社会という共同体に参加するために必須の資格であるからだ。仕事での意思疎通はもちろん、遊びやスポーツ、趣味の世界や、日常の生活、例えば買い物したり食事をしたりという時にすら、それを円滑に行えることが、有利に働くことは間違いない。互いに多くの情報の交換が可能になれば、様々な判断をより確実にし、新しいものもそこから生まれる。経験を通して学んだものはより実践的であり、人を成長させるのに大いに役立つが、多くの経験はコミュニケーションを通してもたらされる。単純に多くのものと触れ合う機会が広がることは楽しいが、一方でそれがうまくできない場合には、この世界で弱者の位置に成り下がることを意味する。

私の場合は、長くこの問題に直面し悩んできた。記憶のあるところを辿ると最も古いところで幼稚園の年中組の頃まで遡る。当時から、なんとなく群れ合う者たちの輪に入っていけず困った。共通の話題や感覚をあまり持てない、そういうことは誰しもあろうが、そういう時に自分の感情を理解する言葉が出てこなくて軽いパニックを起し中身のない適当な反応でごまかしていたように思う。

小学校に入ってもそんな調子だったが、今でもざっと記憶にあって出て来るのは教師に怒られたことだったりする。それも自分の状況をいつまでもうまく説明できなかったり、自分の態度が思ってもいなかったように受け取られて反感をかったために理不尽に怒られたような、言い返せなくて悔しかった記憶だ。今でも内心と無意識のうちに出る非言語的メッセージとの不一致で誤解を招く場面があるような気がする。
高学年になると半ば人付き合いにあきらめが生じ、とりあえず勉強ができれば将来なんとかなるんじゃないかと思っていたところがある。班長とか学級委員とか、そういったものはよくやっていて嫌いではなかったがやはり人をまとめるのには苦労した。修学旅行のようなイベントはナーバスになって当日行かないようなことがあった。

中学でも成績は優秀で生徒会役員なんかもやったような気がするが、3年になると思い悩んで不登校気味になった。卒業式の後なんかろくに話す人もいなくて一人で隠れるようにして帰ったような気がする。
高校は入って直に辞めた。

思い返せば散々なそんな性格にも関わらず、接客の仕事が好きでやっていたのは今の状態で考えると信じられないような気もする。人前で説明したり教えたりするのは好きだし、興味を持った分野の知識を入れるのは得意なのでセールストークでカバーしているのだろう。誰よりもマニュアルを読み込んできて、その場での対応はうまくやれる自信があるのだが、継続的な人間関係が築けなくて壁にぶち当たる。


2005年の愛知万博があって、それから感情の波も上下動したけど、なんとか前向きにやってこれたかなと思っていた。大学で何人か素晴らしい人たちと出会った。話のできる人、相談出来る人もできたかな、と思ってた。違ったらしい。俺がペースを崩すとやっぱりみんな離れて行ってしまう。

自分では何なのかよくわからないのだけど、俺が対人関係においてどうやら問題を抱えているらしいことは周りの人の反応を観察してわかっているから、なんとか自分を変えようと、人に聞いたり自己啓発の本を読んだりして必死にやってきたのにな。距離感や振る舞いを変えてみたり、明るく積極的に話しかけてみたりしても退かれていくだけのようだった。人の顔や名前を覚えたり識別するのが驚異的に苦手なのは良くない原因の一つだろう。よく見知った人ですら髪型や服装を変えられると見分けが付かなくなる。脳の一部が欠損しているんじゃなかろうか。

迷惑かけてまで付き合ってもらうのは俺も嫌だから、それは言って欲しいし、むしろ言ってくれないと何をどうしたらいいのかわからなくて、近い人には頼んでもみたんだけど、結局付き合いきれなくてみんな黙って避けるようになっていく。俺が遠慮して話さないようになったら、案の定もう誰も話しかけてもこない、メールも一切コンタクトをとってこない。それは友だちだとか言ってたのはやっぱり嘘なんじゃねーかと思う。それなりに今まで話してくれてたのも一体何だったんだろうかと思う。誰も俺のことを心配する義務なんてないし、こんなこと自分で言うのも情けなくて嫌だけど、見捨てられたんだと思っている。面と向かったら適当なこと言うくせに、実際は誰一人、俺に関与したいと思ってなかったってことだもん。

「みんなが応援している」って何なんだろう。それだったら俺だってみんなを応援しているよ。誰の不幸も願ってなんかはいないよ。みんながうまくいけばいいと思っている。それは応援か?ただの願いだ。何ら行動を伴わない、口だけだったらいくらでも言えるよ。いや待て、口ですら言っていないじゃないか。言われなきゃわからないよ。口にもせず思っているだけじゃ存在しないのと同じだよ。察しろ?感じ取れ?無理だよ!俺が深刻に困っているのに直接声をかけにきてくれた者は誰一人いないよ。そしてこちらから相談を持ちかけた人は2度目3度目には避けていくか、メールなら無視。迷惑だとすら言ってこないのね。

口で言えばそれでいいのかってことだけど、少なくとも明確に口にしたのであれば、嘘だったとしても嘘をつく意思があったのだろう。罪悪感も伴うだろう。それですら面倒だ、関わりたくないと思って無視という最大の他者への拒絶表現を選択したのならば、そのことを自覚するべきだ。本人のいないところで勝手なことを思って実際には何もしていないのに、いかにも自分は理解ある人間だったみたいな顔をするなよ。

やめよう、こんな話は。非難めいたのはよくない。


発達障害について

発達障害についての本*1を読んだ。有病率調査によって1%〜10%程度いると言われる発達障害*2とはどんなものか、周りの人はどのように理解し接すれば良いのか、ケースを上げ大変分かりやすく書かれた本であった。

この本で特に取り上げられているのは、包括的な概念である軽度発達障害の一つ、広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorder)(定義により、ほぼ同じ概念の自閉症スペクトラム障害(Autistic Spectrum Disorder))、そのうち言葉や知的発達の遅れがないものを指す、アスペルガー症候群。特にアスペルガー症候群は一見普通に見えるので問題の発露が遅れ、そのことが却って高度なコミュニケーションが求められる社会に出るようになって顕在化することがあるという点で注意が必要である。

「ちょっと変」に見える人をPDDの視点で見分けるのに、3つのポイントがある。

  1. 社会性はあるか?
    他人とうまくつき合えるかどうか。場の空気や間を文脈に沿って理解し、他者とコミュニケーションが取れるかどうか。
  2. 意思疎通はできるか?
    言葉や表情、身振りを使って他人と意思疎通が取れるかどうか。
  3. 想像力のズレや強いこだわりはあるか?
    状況に応じて他人の考えや気持ちを推し量ることにズレが生じやすい傾向がないか。その結果、柔軟な行動が取れず、物事に必要以上にこだわる傾向がないか。

備瀬 哲弘 2009『大人の発達障害アスペルガー症候群、AD/HD、自閉症が楽になる本』

これらはPDDに共通する軽度の特徴であり、当てはまるからといって即座に診断基準となるわけではない点にも注意したい。

私は相変わらず簡易自己診断では、かなり高めの数値が出たけど、抑うつ度検査と同じで自己標的バイアスがかかってると思うから正確なところはわからない。しかしこの本を読みながら自分の性格を振り返ってみると、紹介された事例にも多く当てはまる特徴があることに気づいた。例を挙げてみると、

  • 感覚の偏り:特定の刺激に過敏、又は鈍い。
    特定の光や音が不快でたまらなかったり、皮膚感覚が気持ち悪かったり。そして疲れに鈍感なことも多い。
  • バランス感覚を使った運動の不器用さ
    ジャンプやスキップが不得意だったり、リボンを上手く結べなかったり、球技は得意でない。相手の動きを予測したプレイや、バスケやサッカーのフェイントも難しい。
  • 遠まわしな表現や比喩表現がわからない、冗談が通じない
  • ごっこ遊びが苦手


私の場合は、何かのめりこみだすと止まらないところがある。ネットで調べ物を始めたら次々にページを開いていって十数時間食事もとらずぶっ続けで見ているようなことがよくある。多少の疲れはどうでもよくなってこれを見終わるまではという義務感が強くなる。一旦終えると睡眠が長く起き上がれなくなって生活のリズムを崩す。レポートを書くときでも徹底的に資料を読み込んだ後でないと漏れがあってはいけないという意識が働く。

一度自分で立てた計画が順番どおりに終わらないと先に進めない。優先順位に応じて組み替えるのが苦手。荷物がやたら多い。必要になる可能性のあるものは全部持ち歩かないと不安で鞄が一杯。収集・整理・分類好き。

大勢の前で話したり発表するのは好きなのだが、極度の緊張で全身汗びっしょりになる。落ち着いてやればできるのだが、不測の事態に落ち着くことそのものが難しい。

走るのはクラスでは速いほうで陸上もやっていたが、球技はからきしダメだった。小学校のときに野球部に入ったが、最初はどう体を動かせばいいのかわからなくてキャッチボールすらできなかった。度々あらぬ方向に暴投。バッティングも相当みっちり形を叩き込まれたが、ぎこちなくてロボットみたいだと言われた。サッカーも球を持ったらどう動いて、どのタイミングでパスやシュートを打ったらいいのかわからない、当然フェイントなど全くついていけなかった。

関係ないかもしれないが、コンタクトレンズが全く入れられない。眼球が触れることを拒否する。店で目を真っ赤にして何十分もトライしたが一度もちゃんとはめることができなかった。

スポーツもそうだが、音楽も全然わからない。リズム感がない。音階が分からない。幼いときにピアノを数年習っていたが正直あんまり楽しくなかった。アドリブや協和音で弾くときは何がよい音なのか分からず、先生の顔色を伺いながらやっていた。

昔の彼女が文学的な表現が好きで比喩を使うのに、たまに意味が分からなくてついていけなくなった。特に喧嘩のときに比喩で自分の行為を非難されると、意味を理解してそれが妥当なのか詭弁なのか判断するのにすごく時間がかかってパニックになった。

人の顔を覚えるのが苦手。非言語的なコミュニケーション(表情・ジェスチャー)を読み取るのが苦手。察したり、暗黙の了解がわからない。言葉を額面通りに受け取る。

上記は比較的経度に留まっているのものもあるが、周りの人間の反応が気になって羞恥心が強いのも問題だと思う。一方で自我が強くて譲らないところもある。セルフモニタリングが高いのか低いのかどっちなんだろう。


ところで、私はある人にずっとこだわり続けていた。彼女は賢く、知見も広く、気が利いて、多くの人に好感を持たれているので、私は尊敬している。ある時まで彼女によく話を聞いてもらっていたし、私も彼女の悩みや何かを聞いていた。私の一番の理解者だと思っていたし、長時間電話やメールをすることもあった。だがある時から電話に出てくれなくなった。もう2年以上前のことである。最初は忙しいんだとか疲れてたんだとかごまかされていたが、会った時には普通に話していたし、メールもぐっと減ったがたまには返してくれていた。でも明らかにそれは俺を避けていたんだと思う。当時は問い詰めても決して認めることはなかったが。

俺への評価が下がっていたのは間違いなかったが、それでも俺はあきらめなかった。今年になって、二人で会って話はしないし、メールも返さないと宣言された。俺が依存するかららしい。理由になっていない。何故なのか俺は繰り返し質問を変え問い続けたがそれに対して真っ当な返事はなかった。この時も理由にこだわり続けた。彼女の口から少しでも、止めて欲しいようなことが言われればそうしなければいけないと思ったが、何しろ彼女からの接触はしないと言われただけで、どう思っているとかそういうことは一切語られなかった。客観的に見れば屁理屈じみてて病的だと思われるかもしれないが、俺からすれば以前と比べて俺の言動が特別変わったとは思っていなかったし、何故そのように言われなければいけないのかわからなかった。俺の性格では彼女の心境を想像するのは理解の範囲を超えていたので、わかるように説明してくれと頼んだが聞き入れられなかった。俺のことが嫌いになったのかと問えば、そうではないと言われた。メールは着信拒否はされなかった。俺には全く不可解であった。

そんな状態にまでなって俺が何を送っていたのかと言えば、何でもない日常のできごととか、彼女が興味のありそうな話題を見かけた時にそれを知らせたり、俺のその時考えていることだったりした。悩みを解決して欲しいとかじゃなくて聞いてもらえればそれでよかった。彼女なら俺の話す内容を理解してくれると思っていたし、見てくれているのかどうかさえもよくわからなかったが、俺には他に話し相手がいなかったから、もしかしてでも見てくれていたらそれでよかった。世の中の人がメールでどんなことを会話しているのか俺には想像が付かないが、大方似たり寄ったりなんじゃないかと思う。返事もないのに送り続けるようなことは他の人にはしなかったから、それが多少なり異常なことはわかっていたが、それ以上拒絶もされなかったから好意的に解釈する他なかった。

まだつい最近だが、突然もうどうでも良くなった。そう思い立った前の日には、偶然他の人と一緒に彼女にも会って少し話し、その日もメールしていたのだが次の日には気が変わった。その日のやりとりも、何だかそれまでとずーっと一緒で進歩がないな、とようやく思い立ち、いつまで俺はこんなことを繰り返すんだろうと急に無情になったのと、もう死ぬんだから関係ないや、という諦めでもあった。

こうしてここに書くのももし彼女の迷惑になってはいけないとずっと考えていたが、俺が悪いのがはっきりすれば彼女の名誉は守られるか。人とろくに付き合いがないから精神的に未熟なままで、だからこんな年になっても聞き分けのない子どもみたいなことを言っているのだろうか。



今初めてぶち当たった挫折じゃなくて、私はずっと自身のこの問題と闘ってきた。こういう悩みは一人で考え込めば考え込むほど深みにはまっていく。だからこそ近年は、なるべく人に話そうと努めてきた。*3かといっていきなり親しくない人に身の上話を聞いてもらうわけにいかないし、自分の内面を打ち明けることへの心理的抵抗もあったから、なかなか思うようにはいかなかった。話したとしても、以降遠ざけられてしまうようなこともあった。今までの私の交友関係のあった場、学校、職場、ネット、どこでだって良い関係を残せている人はほとんど存在しない。気まずくなって苦い思いばかりが残っていく。今の大学には愛着があるしここの人達も私は好きだけど、ここを出ても関係の続く人なんていないんじゃないか。それはとても寂しくて悲しいことだ。

もう最後のチャンスかなと思っていたんだ。前の学期に復学して単位も上々に取れた。今学期も継続して英語に力を入れて、夏から次のステップに進む計画だったんだ。自己のストレス耐性を見るテスト期間でもあったけど、人間関係の不安定から破綻してしまった。

もう引き返せないところまで来たよ。今週は英語の中間試験なんだ。他の科目も直に欠席数でアウトになる。全教科落第決定だね。もともとこの大学にいるのもこの学期までと決めてたけど、予定より早くなってしまった。



この社会は私が生きるには厳し過ぎた。いや、俺があまりに弱すぎた。母親だけが気違いのように心配している。そして経済的な面を中心に親には依存しきっている。全部裏目だ。親を悲しませないためだけに生きていくのか?俺の人生がこんなに苦しいのに?

死ぬしかないと思っている。むしろ死なねばならないと思っている。一日長く生きれば生きただけ、周囲に迷惑をかけて困らせることになるだろうから。早くけりをつけて忘れてもらったほうがいいのだ。どうせ全ての人が俺のことを忘れるのに長く時間はかからないだろう。遺伝子的に弱い残念な人間だったのだろう。淘汰されたほうが人類のためだ。



ふう。ここ数年、布団の中に入って考えごとをする度頭の中を巡っていたことが、やっと言語化できた気がするよ。書き留めたところで、俺のことを知りたい人なんていやしないんだろうが、理解してもらうためには説明しなきゃとずっと思っていたからこれで少し肩の荷が降りた。うまく伝わるか、伝わったところで理解を得られるのかは疑問だが、俺は満足だよ。俺のやるべきことはやった。悲しいけどこれが俺にできる限界だ。

もうしばらく、本でも読もう。まだやれることがあるからね。

*1:備瀬 哲弘 2009『大人の発達障害アスペルガー症候群、AD/HD、自閉症が楽になる本』

*2:2002年文科省が小学校、中学校で行った調査では「通常学級で知的発達に遅れはないが、学習面や行動面に著しい困難を示す」と担任教師が回答した児童生徒は6.3%。前掲書pp.38-39

*3:話す相手がいることの重要性 - 私は何を知っているか?