私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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人間の能力の半分は遺伝子、もう半分は環境と努力

人間の能力はおよそ次の割合で決まっていると思う。5割は遺伝子、3割は環境、そして残り2割が努力だ。



まず遺伝子。これはどうしたって人間みな同じではないから、生まれながらに差がある。遺伝子的に強い人、弱い人というのがいる。病気になりやすい人、なりにくい人、体格の優れた人、劣った人、障害のある人、ない人、容姿の優れた人、そうでない人。コミュニケーション能力の高い人、低い人。個性だとかなんとか言って、人間の評価に公然と序列をつけるのはあまり好ましいことではないが、生物的にははっきりしている。それは生き物として強いか弱いかの差だ。

このことはスポーツの世界で考えてみれば、理解しやすい。どれだけ練習を積んでハードなトレーニングをしたって、誰もがイチローのような名選手になれるわけではない。体格をカバーするために技術を身につけるとか、基礎的なトレーニングに手を抜かないとか、そういう努力が実を結ぶ部分はあるが、じゃあ一流になれなかった選手は努力が足りなかったのかと言うと、そうではない。子供の頃からプロ選手を夢見て練習を積んでいっても、どこかで伸び代には限界があって、大きな大会に出れば、自分には越えられない壁というものがあるのを思い知り、その世界で食べて行くのは無理だという現実にぶちあたり挫折するのだ。

何も一線で活躍するだけが能ではないので、能力の低い人は低い人なりに、活躍できる場面を探せばいい。うまく自分の収まる場所を見つけられなかった人間は悲惨だ。例えば、プロ選手にはなれなかったけど球団職員になるとか、本人がやりがいをもっていきいきとやれれば何の問題もない。だが選手としてぱっとせず、打撃練習用のバッティングピッチャーになったものの、過酷な環境やプレッシャーに汲々としながら給料も安くても生きるためにやっていかなくてはいけないというのは辛い。まあスポーツには全然詳しいわけじゃないので知らんが。*1

とかく勉強とか、仕事の場面では、全てを本人の努力に求められることが多いように思う。思うように成果を残せないのは、頑張りが足りないからだとか、怠け者だからとか。もちろん本当に努力が足りなくて、もっとできるのにやっていないだけという場面もあるだろうが、ある程度自分ではどうしようもない部分もあるんじゃないか。

鬱病は、誰だってなり得るものだが、ただやっぱり精神疾患に罹りやすい家系とか、なりやすい性格というのはある。身体は資本なので、肉体的に弱い人は大変だと思うが、心が健康じゃないのも生きていくのに辛い。メンタルが弱いとか、自分に自信が持てないとか、それだけで競争に勝ち抜くのに不利だ。本当はそんなこと望んでいないのに、苦しさのあまり自ら死にたくなるなんてどう考えても生物的に欠陥ではないか。全て本人の自己責任とは言えないと思う。

コミュニケーション能力も同様。ずば抜けて何かの能力に秀でている人は周りが放っておかないので人格に多少難があろうが食っていけるだろうが、そうでない大部分の人にとって死活問題。社会的関係をうまく築けない人は、情報を得たり、何かを経験して成長する機会も少なくなっていくので周りから孤立してどんどん差が開いていく。変な人、と見られて近寄り難い存在となって怖がられたりして。普通の人が特に意識しなくてもできる、自然に会話したり周りに合わせたりということができないだけなのに。それとは逆に、タレントになれるような、小さいときから自然と周りに人が寄ってくるというような人は、努力して人に好かれようとか思わなくても自分のしたいように気ままに振る舞ってもそうらしい。そういう人気者は寄ってくる人がうっとうしいと思ったりするらしい。もちろん努力して自分を変えたという人がいないでもないことはわかっているが、レアケースだ。*2




次に3割を担う、環境という部分。これは生まれてから現在までの生育環境、そして自分の置かれた経済的、人間関係的、地理的、環境だ。人間、自分が思っている以上に周りの影響を受けるものだ。周りが頑張っている人ばかりなら自分も頑張らねばと思い、周りが適当な人間ばかりなら堕落していくのが人間だ。遺伝子は変えられないから、人を作る上で教育が重要なことの理由でもある。

犯罪者や死刑囚のエピソードを見ると、幼少期にどう育てられたかが影響していることが多いように思う。生まれながらに根っからの悪人なんて者がそうそういるわけではなく、身近に愛情を与えてくれる人がいたら、正しい道に導いてくれる人がいたら、別の人生があったのではないか。死刑の永山基準で有名な、永山則夫のドキュメントを見たときにもそう感じた。通り魔殺人なんか起こした人の報道を見ると、そこに至るまでの段階に本人の責任が大きいし、同情は出来ないし、決して許せることではないが、ただなぜ犯人がそのような心境を持ったのかについては理解できることがある時がある。社会から疎外され(たと感じ)、自分には失うものが何もないと思い、自暴自棄から破壊衝動を起こすというのは異常心理でもなく動機としてはわかりやすい。ただ選択として間違っていたというだけだ。犯罪に至るまでの環境に何か別の要因があれば、また別の未来もあったかもしれない。*3

どの世界でも一流の、活躍している人には、一流の者同士の付き合いがあり、お互いを刺激し合い、高め合う関係ができている。一方で、一人頭の悪そうな不良を捕まえてみれば、周りは同じような輩ばかり。低学歴、低所得の層には犯罪に手を染める物も自然と多くなるし、何かあれば足を引っ張り合う関係がある。転落していく人を助けてくれる人はあまりいないが、下で待ち構え、上昇していこうとする人の邪魔をする人はたくさんいる。だから自分を変えたいと思ったら所属する場所を変え、付き合う人を変えるべきなのだ。




あとは、残りの2割が本人の努力だ。努力を継続できるかということ一つとっても、遺伝子や環境による影響から完全に免れられないことは書いてきた。努力を継続するための工夫としては、目標の管理の仕方とか、精神と肉体は両輪なので難題に挑戦するときは身体は鍛えた方がいいとかあるが、そういうことは今回の主題ではない。




この数字は僕の経験と知見から導き出したものだ。科学的根拠や出典を問われてもない。だが、そんなに実態と離れていないし、なかなか絶妙だと思っている。半分は生まれながらに決まっていると言うと、ある意味残酷でショッキングだが、環境と努力は自分で変えられるものだから、残り半分は本人次第と言うこともできる。遺伝子と、環境もある程度までは与えられるものだから8割が運っちゃあ運ということもできる。

もちろん近代文明社会としては、誰にでも生きやすい社会でなくてはいけなくて、生まれもっての能力での差はなるべく埋めるべきだが、理想としてあるべき姿と現実は違う。そうした能力に差があることは誰しもわかっていて、受験、就職、結婚相手や付き合う人を選ぶ場面で常に競争にさらされている。皆少しでもよりよい条件の相手を求めている。能力の劣った人は優れた人に比べてハンデを負って生きていかねばならない。世の中は全然公平になど出来ていない。与えられたカードで勝負するしかない。

(つづく)

参考文献

*1

*2

*3
この本は、現大阪市長橋下徹氏が、メディアでも人気の弁護士として活躍していた2007年に思春期世代に向けて書いた人間関係の指南本。暴力といじめに支配された荒れた学校で「安全を得るために」一番荒れているラグビー部に入りしごかれた彼自身の体験を踏まえて、学校というヒエラルキースクールカーストだね)の中でどう振る舞うべきか、世渡りの必要性について書いている。彼がとった荒れた学校で生き抜くためにラグビー部の理不尽な暴力にも耐えるという手法は、それで潰れてしまうような能力の高くない人間には真似できるものではないが、この本の内容には私は大筋では納得している。彼の人となりが形成される過程が窺える興味深いエピソードだ。

どれだけ勉強して、良い大学に行って、良い会社に就職しようが、人とつきあえない人は失敗していく。成功している人は、コミュニケーション力が必ず高い。それは社会の真理だといえます。(p.101)


世の中には、自分を抑える必要のない人はいます。それは否定しません。自分の気持ちを素直に出して、自分のキャラクターそのまんまで勝負して、自分の感情に素直にふるまって、それでいてみんなに好かれるヤツ。うらやましいことに、そういう人はたしかに存在します。
ただし、いたとしても本当に少ない。世の中でごくごく限られた人だけです。それは一種の才能であって、後から身につくものではない。神様から与えられた贈り物のようなものです。
(中略)
表面的には「お気楽」に見えても、裏側では気を配りっぱなし。非常にシビアに計算しながら動いていることが多いことを、僕のTV出演経験から、打ち明けておきましょう。(p.149)