私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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問:自殺しようとしている人を止める言葉を考えてください

2014/7追記:
自殺しようとしている人が身近にいて対応を考えていらっしゃる優しい方へ。
以下のページの記述が参考になるかと思います。

問:今、あなたの目の前で自殺しようとしている人を止める言葉を考えてください。ただし、以下の言葉には後述する反論が想定されます。


死ぬ覚悟があれば何だってできる。
本当にそうでしょうか。確かにどうしたって生きようとする生物の本能的部分に逆らって死のうとすることは、エネルギーを必要とします。本当に抑鬱状態で塞ぎこんでいる時は死のうとする気力さえありません。そういった意味で人が死のうと覚悟した時は決意めいたエネルギーがあります。しかしだからと言ってそのエネルギーは他に転用可能なものでしょうか。何かを得たいと言う欲望、例えば性的な欲望は生への欲望と本質的に同じ方向を向いているから変換が可能だと思いますよ。しかし生命活動を終わらせたいという欲望は生とは真反対の方向を向いています。そんなことができるとは到底思えません。散々生きることに苦しみ、しがらみから解放されたいと思っている人に向かって生きろと言うことは、さらに苦しめと命令していることに同じです。そんな絶望的なこと言わないでください。

生きていればいいことがあるさ。
一体何の根拠があってそんなことが言えるのでしょうか。その楽天的な思考に怒りさえ感じます。そりゃあ生きていていいこと、楽しいことが全くないとはいいませんよ。きっと美味しいものを食べられるでしょうし、感動的な景色を見られるかもしれませんし、感激するようなセックスができるかもしれません。けどそんなことは最早問題ではないのです。それにも優る苦痛があって耐え難いと予想される。だからもう脱したいのです。その人が苦しんでいることに対してあまりに無理解な発言だと思います。

生きたくても生きられない人がいるのに自分から死ぬなんて横暴だ。
これもたまに聞く例ですけど、よく考えたらおかしいのです。アフリカで食料に飢えている子供達でも、難病で成功率の限りなく低い手術を待っている人でもいいですが、生まれた環境も能力も何から何まで違う。どんなに想像力を働かせたところで所詮他人は他人。その人にはなれないのです。自分が、亡くなった誰々の分まで生きると決意して生きる希望にするのは勝手ですが、それを他人に強制したって無理です。もしこの命を誰かにあげられるなら喜んであげますが(余談ですが私は臓器移植には賛成です)、それは不可能です。絶対的に不可能なことを仮定に出してきて、それができないのならもう一つの選択肢に従えと言うのは議論におけるルール違反です。

命は貴重で大切なもの。粗末にしてはいけない。
命は貴重だと言う点には同意します。一度失えば二度と手に入らないものであり、だからこそ最大限に尊重しなければいけないものです。生存権は人間の最も基本的な権利であり、他者によって侵害されることがあってはなりません。しかし自己決定権に従って十分に考えた上で自らの命の処分を決定することも同時に権利としてあります。それが例え愚行権と言われようともその行使は認められるべきです。

死は運命(神)のみが決めること。死にたいから死ぬなんて罪だ。
よくわかりません。私は絶対的な神の存在は否定します。同時に私は神道的世界観や、宗教の概念を肯定しますが、これらはそのように考えたほうが合理的で平穏をもたらすことから人によって創られたのでしょう。ともかくこの世界は表象であり、全ては私の死と共に消失します。死んだらおしまいです。
それにもし、死んではいけない運命なのだとしたら、どんなに死のうと努力したところで絶対に死ねないのではないでしょうか。運命で全てが決定されているとしたら、私は何も自分の意思で考えることができないことになります。それならばある意味で楽だと思いますが、思考停止はそれこそ罪であると思うし、また現実的でないと思います。

生きることは元々辛いこと。だから少しでも幸せになれるように努力して生きるんじゃないか。
以前まで、そう思っていました。生きるのは苦しいことである。楽しく生きられるように努力して、そして死ぬときに幸せな人生だったと思えるように継続することが生きる目的であると。しかし、それだけでは生きるためのモチベーションを保つのには困難であると言う結論に至りました。人が前向きに生きるには希望が必要です。人が希望を失うのは、将来が見えないときと、将来が見えてしまったときだと思います。将来が見えないのは、いくら努力しても生活が向上する兆しが感じられないとか、牢屋に入れられて死刑の執行されるのを待っているときとか、将来が見えてしまったのは、この会社にいても出世できないのがわかってキャリアが見えてしまったときとか。希望とは、将来が不確定ながら自分の手によって創造できるときに生まれるものなのだと思うのです。

さて翻ってみて私の場合、希望が持てなくなってしまった。それが自分の努力で変えられるものならそうするべきでしょう。しかし内的な能力・資質によるもので自分では如何ともし難い。仕事だとか勉強だとかのやらねばならないことどころか、趣味的な自分がやりたいこと、読書だとか旅行だとか写真とかさえ十分に実現できない。双極性Ⅱ型障害(躁鬱病)のせいなのか、感情の波が激しいし、すぐに引きこもるし、バランスよく物事ができない。そんな人間がまともに生きて人生を楽しむことができるでしょうか。私は幸せになることはできない。むしろ一日長く生きれば生きたただけ将来に受ける苦痛が大きくなっていく。そして周りで私に関わっている人々にも迷惑をかけることになる。だから一日も早く死なねばならないと思うのです。

お前が死ぬと私が悲しいから死ぬな。
これは随分勝手な言い分だと思います。あなたを悲しませないためだけに私は生きていなければならないのですか。私の人生に責任を持たねばならないのは私だけだし、あなたは一体私に何を提供してくれると言うのでしょうか。少なからず身近な人が死ねば精神的ショックを受けるのは確かでしょう。しかし大抵の人、特に私の周りにいる人たちは少しすれば私のことなどあっさりと忘れてしまうに決まっているのです。大してその人のことを想ってもいないのに気軽に口にしないで欲しい。*1もし本当に、この人のために死ねないという精神的紐帯を感じられる人、自分で作った家族がいたら死のうとはしないのかもしれませんね。私は自分より上の家族(世代)には恩義は感じても責任はないという持論ですから。

そもそもこの社会は通常明日人が死ぬことを想定して活動していません。実際には今大地震が来てつぶされるかもしれないし、道端で通り魔に襲われて死ぬかもしれないのに。まぁ生きているだろうという可能性に基づいて行動しているに過ぎないのかもしれませんが、そのことを当たり前に思わないで欲しい。ぽんぽん死なれては残された者が困るという理屈で、生きていなければならないと迫る。皆生きることを強いる共犯者なのです。そのことに罪を感じて欲しいし疑問を持って欲しい。なぜ死んではいけないのか。

親より先に死んではいけない。親や周りの人から受けた恩を返していないのに死んではいけない。
これは心情的には反論しにくいのですが、やはり正しくないと思います。先に書いたように、上の世代に対して恩義や尊敬は持ちますし扶養義務もありますが、自身の死への願望の前にはキャンセルされると思います。究極的には自分の信念ですから、自分を殺してまで従わなくては(生きなくては)いけないとは思いません。人は失敗や迷惑をかけながら人間的成長をしていくものです。恩を受けるのは自然なことですしそれがないと成長できないでしょう。下の世代を育てるのは上の世代の義務ですし、期待するリターンが得られなかったとしても受け止めるべきでしょう。

ごちゃごちゃ言ってないでさっさと死ぬなら死ね。
以上から、自殺を止める合理的な理由はないように思います。じゃあもう死んでしまえばいいと思うのですが、歯止めとなっているのが躊躇って失敗したらという恐怖ですよね。不可逆的な損傷を負って後遺障害が残ったらと思うと目も当てられないし、社会的な信用もないし(これはこの文章を発表した時点でダメかもしれませんが)戻るところがないでしょう。もう大学には戻れないと思いますし。それこそ人生詰んで、死のうにも自分で死ぬ能力さえなくなったら本当の恐怖です。

私がなぜこんなにも苦しいのかは、友達がいないからでも、複雑性悲嘆*2のせいでもなかったのだと思います。これらは副次的な要因として小さくはないけども、一義的には自分が如何に無知で、それだけでなく知らないなら知らないなりに社会で生きていくためのバランス感覚も持ち合わせていないことが分かったのです。平たく言えば自分の才能に限界を感じたと言うことでしょう。これは大学に来て思い知ったことで、それがわかっただけでも大学に意味を見出すことができるかもしれません。



こういう風に死ななければならないという義務感があって、自分の考えを数日かけて書いてたらまた命が繋がってしまった。本当に頭の処理能力が低いのでアウトプットするのに膨大な時間がかかるのだ。

来月から留学が決まっているのだが、本当にこんな調子で生きていけるのか不安がある。それ以前に今の大学でレポートやテストをやらなくてはいけないのに、一週間引きこもってこんなものを書いている場合ではないのに。まぁこれを書いたおかげで持ち直したのだが。単位がギリギリで、取らないと向こうへの編入に影響があるので深刻な問題だ。あぁ、それに神戸から名古屋への引越しもあるし荷物まとまらないし、困った。

*1:私の嫌いなもの - 私は何を知っているか?

*2:死別に対する情緒的反応で、社会的に重大な機能不全を起こす症状を見せる。精神障害として登載するか検討中。