私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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大学にいて思うこと

地方の弱小私立大学に身を置く私の感じたこと。

あまりにマナーの酷い学生が多いのに閉口する。

疲れて寝てるだとか、自分でテキスト読んでるほうがよっぽど効率よく勉強できて授業から得るものがあまりないという判断で他事をやっているのはいい。私もあるし。それでも出席が厳しいのもあって授業には出ないといけないわけで。

腹立たしいのは明らかに迷惑をかけているのにそれを微塵も感じず堂々とやっているやから。

それから不思議なのは自立的に学ぶ意欲がないもの。わざわざ講義に出てきて一体何をやっているんだろう。ろくにものを知らないのに学ぶことを拒否して、私からしたら生きることをあきらめてるのかとすら思ってしまうのだが。高い授業料を払ってるんだから一つでも多く得て帰らないと損だと思わないのだろうか。彼らはこの4年間を楽をすることだけに全精力を注いで一体その後どうするつもりなのだろう。

自分の周りの直近した問題、ごく狭い範囲のことにしか興味がないのかな、と思う。政治や学問や学内の自治(周りに迷惑をかけるとどう評価されるか、とか教室を汚すとどうなるか、とかグループ発表で何をやるか、というレベルの話でさえ)は自分とは関係ないと思っているから興味を持てないし、授業中に教員が自分に話しかけている時意外は他人事だと思っているらしい。あるいは、めんどくさいと考えているのか、率先して何かをやって目立ちたくないということだろうか。君の傍若無人な振る舞いは十分目立ってるんだけどな。。。

目立ちたくないというのはあるのかもしれないな。語学の授業なんかで、挙手で答えを求めようとすると全然学生の反応がなくて教員が困っていることがある。一部手を挙げる学生がいてもあんまり何度も同じ人ばかりになってしまうとさすがに遠慮する。個別に指名して答えさせると実は結構わかっていたりする。手を挙げてる私よりよっぽどできてるじゃねぇかと思ったりしてこの雰囲気にはほんとに萎縮する。


よくもまああれだけ無関心でいられるものだと、どういう頭の構造をしているのか不思議でしょうがない。私など社会の出来事や他人に興味がありすぎて、授業中でも道を歩いていても注意散漫になって困っているが、彼らはそういうことはないのだろうか。


自分の利益に直結することだけは敏感に反応して強く不満を訴える。出席日数が足りなくて単位が落ちるとか、食堂が混んでいて使えないとか。それでも自分が労力をかけて何か解決しようというまでの気力はやっぱりないらしい。誰に訴えたら効果的なのか、調べようということもないらしい。



それでも3年になって以前に比べれば見違えて静かになって、授業にも少しは取り組むようになった(あるいはやる気がなくても一人で静かにしている)学生を見かけると、一体彼らにどういう心境の変化があったのか詳しく聞いてみたいものだが、私の身近に友達が誰もいないので聞けない。就職市場という、厳しい評価軸がやっと見えてきて身の振る舞いを意識するようになったのか、あるいはこれまでの授業の成果が効果を示してきたのかもしれないが、大学内にいながらアウトサイダー的存在である私にはよくわからない。


教員の方々にお願いしたいこと

大学教育を受けていて本当に残念なのは一部のあまり魅力的でない先生の講義である。もちろん、専門分野についての知識や経験は持っている(のであろう)から学ぶところはあるのだが、教えるということの技術が低すぎるのである。友人関係でのコミュニケーションに重大な齟齬をきたしている私の言えた事ではないが、これはコミュニケーションスキルの問題である。相手の理解度や反応に関係なく、あくまで自分のペースで講釈を垂れ流すだけ。物事を伝えるときに必ずしも話を長く、情報量を多く話せばいいというものでもない。相手が聞く気がなかったら馬の耳に念仏。相手の反応に応じて話の内容を変えるという柔軟性がなく自分のルールに背く者に対してイライラして、学生との間に敵対関係を作るだけでむしろ距離は遠ざかる。注意の仕方を1パターンしか持っていない。面と向かって言われれば一旦止めるが、大学内の身分における権力によってしぶしぶ従っただけで、根本的に何故いけないかを理解していないか、不条理なことを言われたと思っているから、一度注意しても何度も同じことを繰り返す。どうやって守らすかではなく、どうやったら相手が興味を持って自主的に改善しようとするかを考えなくてはいけない。

教員の本業は研究だと思われているのかもしれない。研究に精を出すのは大いにやっていただいたらいいと思うが、大学に雇用されている以上、教育もあなたの重要な業務の一つだ。社会に還元する義務があるだろう。もちろん溜め込んだ知識をただ教科書通りに吐き出すだけでは能がない。どうやって学びやすい空間を作るか、どう問題提起したら学生が食いついてくるか。そういうことを考えない教員は、学生からつまらない先生だと思われているだろう。もっと面白い話を知っているのに伝えることができない、それはあなたが自身の表現力についての鍛錬を怠っているからだ。優秀な先生は、どう教えたら相手により多く理解してもらえるか、ということも研究している。FD(Faculty Development)活動という言葉もあり、真摯な教員の方ならば認識されていると思う。


そんなのは高等教育機関のすることではない、とおっしゃる方は勉強不足だ。先進諸外国が抱えるのと同様、既にこの国の大半の大学が高等教育機関の名に満たない存在であることについては疑いなく公知の事実である。それでも旧態依然とした主張を続けるのは社会の現実に対応できていない。象牙の塔だ。専門課程に進んでしてそれでは確かに困ってしまうかもしれないが、少なくとも教養課程の必修科目(単位のために仕方なくとる科目)においては、こないだまで受験勉強しかしたことのなかった(かどうかは定かではないが)高校生には無理なのも仕方ない。これまで学ぶことの面白さや必要性を身に付けてこなかった可哀想な学生達に教えてあげるべきだ。私見では、そのようなことも自分で身につけるべきなのは自明であるが、与えられたことをこなすだけで自分の頭で物を考えなくてよい、そのような教育制度の中で育ってきたのであれば無理もあるまい。

そんなのには耐えられない、と思う方は大学を去るべきだろう。恐らくそうしてうちの大学からも1年目に大変利発的な先生が一人、二人去ってしまわれてとても残念ではあるが。まぁ優秀な方は他に行くところがあるだろうからそれも一つの考え方であり生き方だろう。

相手のレベルに合わせてわかりやすく学問を、その面白さを伝えることができなければあなたが研究していることはただのあなたの自己満足。社会に何も貢献していない。自分の利益に直結することにしか興味が持てない、ボンクラ学生達と同じだ。


さて

まぁ、あれだ。この大学にいると自分が何だかできる人間のような錯覚を起こしてしまうから危ない危ない。自戒をしておかないと足元すくわれる。精進しよう。