私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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性犯罪被害者を救うのに必要なのは「理解」だ。

著者の女性は、仕事帰りの夜道、車の中に連れ込まれ強姦の被害に遭った。この本には被害を受けた女性の心理がありありと綴られている。頭の中が真っ白になり、抵抗する気力も、感情もなくなってしまう。自分を護りきれなかったことに罪悪感を感じ、無力感を持ち、汚れた自分を責めてしまう。

加害者が悪いに決まっているのは、頭では理解できていても感情がついてこない。性犯罪の被害に遭った人に世間は優しくないから、周りの人にも伝えられない。隠し事をしなければいけないことにまた罪悪感を感じる。

著者は事件に遭った翌日も仕事に行った。親にも当初被害のことを話せなくて、やっとのことで話しても親はそのことを認めようとしなかった。「もう誰にも話さないでちょうだいね」と言ったという。


「理解」
これが、私が願うたったひとつの、とても強力な被害者への支援である。
大切なのは、制度でも警察でも支援団体でもお金でも復讐でもない。近くにいる人の支えや理解なのだ。

(中略)

私が最も遺憾に思うことは、「被害者って、こんなに苦しいんです!」と訴えること。この記録が、そうとらえられないことを願いながら、書き始めた。
同情を買いたくないことだけは、先に伝えておきたい。
(p.10)

性犯罪の被害に遭ったことを「恥ずかしいこと」として、早く忘れるように言われる。理解の範囲を超えていてどう接していいか戸惑う反応。親しい人にまで腫れ物を触るように扱われる。そうして著者は、自己の存在を否定されたように感じ、隠し事をしているような気持ちになり、苦しんだ。こうした人々の反応は、何も考えていないわけではなく、配慮した上での反応なのだろうが、被害者が勇気を出して話したことを黙殺するのは、考えることを拒否し突き放すことなのではないだろうか。

性犯罪被害者へのものに限らず、あらゆる差別(人種、障害者、性的マイノリティ,etc.)が相手への無理解から発するものだと思う。自分とは違う、なんだかよくわからないものが自分の領域に入ってくるのが恐怖だから排除しようとするのだ。それを防ぐには、相手について知ろうと努めることしかない。知ろうとしない行為がまた誰かを傷つけるのだ。

大好きな友人と口論になったことがあった。
その友人は自律神経失調症の友達に頼まれ、仕事を紹介した。その際、心身の不調については知らされなかった。失調症の彼女は紹介された仕事を無断で休み、早退を繰り返した。友人が理由を尋ねても、「自律神経失調症だから」と謝罪どころか病気を盾に開き直り、以後三ヶ月ほどで仕事を辞めてしまったそうだ。
友人はとても憤慨していた。

(中略)

目に見えないことは理解できないと言う。私は少し、がっかりした。でも、これが現実であり、多くの人の認識なんだと痛感した。
(pp.95-97)

性犯罪は生命や身体、財産を脅かす恐怖を与えるだけでなく、被害者の自尊心を傷つける。それはトラウマとなり、将来にわたって似たような状況や人の言動に対して恐怖や嫌悪を催させる。

この本を全ての人に読んで欲しい。男性にも、女性にも。特に性犯罪の当事者と接触する可能性の高い立場にいる、警察官、検察官、裁判官、弁護士、医療関係者、マスメディアの人たちには。


性犯罪被害にあうということ
小林 美佳
朝日新聞出版 ( 2008-04-22 )
ISBN: 9784022504210
おすすめ度:アマゾンおすすめ度

私たちに何ができるだろう

性犯罪の被害者にどう接すればいいのか、それは一様には言えないだろう。同じ被害に遭ったとしても、その人がどのように感じるかは人それぞれ違う。事件をどう捉えていて、何に怯えているか。どう接して欲しいと思っているか。大事なのは相手を理解しようとすること、自分では思いもしなかったことで相手を恐怖させているかもしれないと想像することだ。


著者が好きなMr.Childrenの「タガタメ」。自分の身近な人が被害者になるかもしれないと想像することができたら、遠い世界の出来事ではないと感じるだろう。