読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

スポンサーリンク

私たちは、税理士試験の適正化を要望します
このblogのおすすめ記事

ファッションが資本主義を生んだ 菊地成孔『服は何故音楽を必要とするのか?』/ヴェルナー・ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』

アート・デザイン

このところの税理士試験の勉強と仕事に加え、カウンセリング、観劇、飲み会、友達の葬儀と休む間もなく続いた後に一段落ついたのがたたったのか、気力の低下と鬱を招いて先週はペースを崩して身体に強制的に休まされていた。いや、世の人々はこの程度のことでへばらずに日々働いていると思うのだが、悲しいことに私の能力(気力と体力)では限界だったようだ。その間、映画と本に逃避していたのでその一部のアウトプットをここに。それから連休は毎日10時間ほどを勉強に費やしたものの一向に追いつかない。私の近況はこのくらいにして。


菊地成孔(きくち なるよし)という人がいる。ジャズミュージシャン、作曲家で東大や音大の講師も勤めたことがあり、映画・音楽・ファッション・食などの批評、文筆業、ラジオDJ等もマルチにこなしている。まさに才能の溢れ出るような、という形容をもって紹介したい人である。氏のことは、NHK爆門学問のテーマ曲を担当していて名前を目にしたことがあった程度だったが、たまたま付けたカーラジオで、再び出会った。しかもAMらしからぬ、シックで奥深い語り口と選曲に引き込まれてしまい、以来時々聞いている。ファッションや音楽に漠然と興味は持っているものの、いまいちわからない私のような素人にも、面白くガイドしてくれる氏のトーク。確かな知識とキレる頭を持った人の話は門外漢が聞いても本当に面白い。映画評や読書評にも言えることだが、秀逸なレビューというものは、それ自体が一つの作品(コンテンツ)として成り立つのだ。

ファッションショーのモデルが作るエレガンス

『服は何故音楽を必要とするのか?』は菊地氏がファッションマガジンに連載している記事をまとめたもので、シーズンごとのパリコレや東京コレクションに発表しているメゾンのショーを、服と音楽、その関係から論じたエッセイ集である。氏の、軽妙洒脱で饒舌な文章のそのテイストが伝わるよう、この本の中ほどからある一節の冒頭をここに抜粋してみたいと思う。

三年めのおさらい そしてアレキサンダー・マックィーンの奇妙な歌舞伎
2006-07 A/W MEN'S

ご挨拶
親愛なる『ファッション・ニュース』読者の皆様こんにちは。満を持してグランド・オープンした表参道ヒルズによって「表参道の右岸と左岸」などという呼称を誰かが提案はしまいか?まさかそんなスノッブな。いや「東京メトロ」などという珍妙な呼称が通ってしまった段階でこの街にもうノンもウィもあるまい。それにしてもパリ郊外のあの暴動はいつどんな感じで鎮圧されたのだろうか?東京ならばあの辺りは葛飾区なのだが、葛飾で燃やされるべきシトロエンの台数は?等々と、東京のパリ化に関して、極端に無意味な自問自答を楽しみながらお送りしております当連載ですが、皆様お買い求めになったばかりの春物の着心地はいかがですか?ショップから戻って包みを開き、鏡の前で初めて袖を通したあの瞬間にだけ訪れる、あの特別な官能とともに、服飾の美に酔いしれる悦びが永遠のものでありますよう。そして音楽が、その悦びにクールでシックな祝福をもたらしますよう。
前回はモロッコのとても静かな元日よりお届けしましたが、今回は再び東京の空の下、パリとミラノから届いた六時間を超える映像を見ております。今回も素晴らしいショーが目白押し、そして今回も音楽の鳴っていないメゾンは一つたりともありません。当連載は、未編集のショーVTRのみを資料に、生まれたばかりの服たちと、そこに召喚された音楽たちとの、甘く、そして時として苦い関係について分析する、構造批評の実験室であります。
『服は何故音楽を必要とするのか?』pp.102-103

一つの記事の3割くらいは挨拶と前回までのあらすじで占められているのではないか(実際はそこまでではないだろうが体感的にはそれくらいの。)という感じすらあるが、文字数稼ぎだと文句を言っているのではなくて、その流れるように続く一連の文章は心地よいリズムを奏で、散りばめられたキーワードに趣味の良さを感じる。それはラジオDJのトーク的でもある。

ハイモードに属するファッションショーではモデルは決して音楽に合わせない。ショーにおける音楽はその一部を構成する重要な要素であり、それ用に特別に用意されたものでもあるのに関わらず、モデルはその音楽をまるで無視するかのようにすまして歩く。このズレこそがあのエレガンスを作っているのだという。ビートに合わせ身体を揺らすという人間の自然な行為に抗うことを強いられるその欲求不満を晴らすかのように、ショーが終わった後の打ち上げのクラブパーティーで最も激しく踊っているのが、モデルとデザイナーという人種なのではないかという、氏の指摘は実に興味深い。一方で近年起ったTGC東京ガールズコレクション)では、不思議なことに、モデルが音楽に合わせて歩き、ランウェイで踊りだすのではないかという勢いなのだという。その独自性が何に発しているのか、モデルの年齢でも音量の違いでもないのだという。


連載が好評を受けての念願のパリコレ取材日記、音楽家へのインタビューと盛りだくさんの内容。正直に言って、出てくるターム(専門用語)だったり氏独特のボキャブラリーだったり、ちょいちょいわからない言葉が出てくるが、それも含めて面白い。

ファッションとは服や音楽等の流行に他ならないが、タイミング次第で、最高にクールなものがただのダサイものになってしまうという、論理では説明が難しく、真に不可思議なものだと思う。その「人々の熱狂」という現象が私にはとても興味深いし、センスともいうべき、「トレンドをつかむ」能力が何であるかを考える時、私は自身の動物的感覚の欠如を思うのだ。

ファッションが資本主義―――人類の発展を生んだ

ファッション繋がりということで、もう一冊。『恋愛と贅沢と資本主義』。経済学者マックス・ウェーバーは、近代資本主義の起りは、プロテスタンティズムの禁欲的倫理にあるとしたが、資本主義の発展の原動力は、女たちの贅沢であり、そんな女への男の色欲にあるとしたのが、ドイツのヴェルナー・ゾンバルトである。本書でゾンバルトは、16~18世紀のヨーロッパの宮廷、勃興する新階級の、服や帽子、陶器、鏡、宝飾品といったものへの贅沢・浪費ぶりを、歴史的文献から拾い上げた、王族や商人たちの収支計算書の数字から検証する。

本書の「第一章 新しい社会」「第二章 大都市」もいいが、なんといっても「第三章 愛の世俗化」以降、「第四章 贅沢の展開」「第五章 奢侈からの資本主義の誕生」が面白い。

一 恋愛に置ける違法原則の勝利
古い社会、そして新しい社会の生活のすべての動きにとって、中世からロココ時代までにかけて行われた両性関係の変化よりも重要であった出来事を私は知らない。とくに近代資本主義の発生を理解することは、この最重要事項を処理するにあたってとられきた措置がいかに根本から変化していったかを正しく評価することと、密接に結びついている。

『恋愛と贅沢と資本主義』第三章 愛の世俗化 p.90

では愛とは何か、これについてあらゆる賢人が、愛が美への憧憬以外の何物でもないとしている点で一致している。だが美とは、万物の、調和とは一致、それに整合された形姿から生ずる優美にほかならない。肉体にとっても精神にとっても同じことがあてはまる。
同書 p.100

だがこうしありさまは根本的に変化していった。ヴァロア家とともにイタリアの文化がフランスに入り、同時に婦人への奉仕も流入した。すでにブラントームもフランス式の愛の技巧をを讃えた。十七および十八世紀において、フランスが今日までその地位を保っている愛の大学になったことはいうまでもない。だが、フランスでは、愛の生活がしまいには変態性にまで繊細化し、生活はすべて愛のためにだけというありさまが十八世紀の本質となった。
同書 p.101

私が敬愛する、モンテーニュ先生の引用も登場する。

さらに一歩をすすめた考え方をひっさげ、この種の思想系列の最後に登場してきたのはモンテーニュである。彼の考え方によれば、愛が楽しみであり、結婚が多くの貴重な目的を追求する社会あるいは教会の制度であるにしても、愛の望みを実現させることは、まえもって結婚のきずなで結ばれていることとは無関係である。そればかりではない。愛と結婚という二つのことはむしろたがいに排斥しあうものなのである。
同書 p.105

二 高等娼婦
ある社会で自由な恋愛が、拘束された愛つまり結婚とならんで羽振りをきかすようになり始めた場合、こうした新型の恋愛につかえる女は誘拐された良家の娘でなければ、姦通する女または娼婦である。ヨーロッパ諸民族の上層部で、恋愛詩人以来、純粋に性愛だけに集中した愛がいかに重要な意味をもつようになっていったか、その事情は誘拐、姦通ならびに売春の増加からつまびらかにしなくてはなるまい。
同書 p.108

さらに売春が中世以来、量的にふえ、その意義も深まったということは周知の事実である。とりわけ、大都市が売春の舞台であったことはいうまでもない。アヴィニヨンからはじまり、ロンドン、パリで頂点に達したわけだ。ふたたび、ペラトルカはそのすばらしいラテン語で、アヴィニヨンが売春婦の洪水で満たされたことを嘆いている。ついで、長い間ローマが、城内に住みついた公娼のおおいことで有名になった。一四九〇年のかなり信頼のおける統計によると、六八〇〇人の娼婦がいたことになる(ローマはその頃一〇万に満たない人口しかなかったのだから)。
同書 p.110

しかし彼女たちはまた、とりわけ街の愛人たち、大娼婦たちの模範になった。街の高等娼婦も、その発生時には、宮廷に対抗する競争相手として登場した。

(中略)

はじめにはこうした事情があったけれども、上流の素性のよい婦人たちとしても、完全に疎外されてしまうつもりがなければ、自分たちも二号たちと競争しなければならないありさまとなった。このことは、社交界の婦人たる者は、たとえどんなにおつにすましていようとしても、どうしてもとりくまなれけばならない、いわば文明の最低条件を形づくった。
そのため上流婦人も、明らかに娼婦たちに刺激されて体を洗うようになった。マリュウ・ド・ロミユは『娘のための教則本』(十六世紀のもの)の中で、女性たるものは、自分のためにも、または夫のためにも体を清潔にしておくようさとした。
一七世紀および十八世紀から、社交婦人が権力をほしいままに発揮するようになった「サロン」も、実はといえば、まずイタリアで、名高い娼婦たちも参加した機知あふるる人々の会合の続編であったにすぎない。
同書 p.121-122

高等娼婦の生活習慣は、上流階級の女性たちの模範であったわけだ。このあたり、江戸の吉原遊女が男性客の相手をするため、高い教養を備え、先進的な髪型や服装でファッションリーダーであった遊女のファッションを見物しようとするものが郭に押し掛けたという話とも共通する。

とある日、ルイ十四世がパリにあるレース製造所を見学したとき、彼は二万二〇〇〇リーヴルのレースを買いこんだ。
フランス宮廷における着るものについての贅沢ぶりは、十八世紀を通じてますますさかんになり、大革命の数年前には最高潮に達した。マリー・アントワネットの衣装に関する予算については、こまかい点までわかっている。
『恋愛と贅沢と資本主義』第四章 贅沢の展開 p.156

十八世紀のフランスの宮廷が、王の愛妾によって完全に支配され、宮廷生活が彼女たちによって方向づけられたことは周知のとおりである。ポンパドゥル夫人は、彼女の趣味のおもむくままに宮廷の全生活の支配者となった。
同書 P.158

四 女の勝利
1 奢侈の一般的発展の傾向
(a)屋内的になってゆく傾向
(b)即物的になってゆく傾向
(c)感性化、繊細化の傾向
(d)圧倒される傾向
同書 pp.196-202

だが、この(旧式の)女性崇拝と砂糖との結合は、経済史的にはきわめて重要な意味がある。なぜなら、初期資本主義期に女が優位に立つと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になり、しかも砂糖があったがために、コーヒー、ココア、紅茶といった興奮剤がヨーロッパで、いちはやく広く愛用されるようになったからだ。しかもこの四つの産物についての商業、ヨーロッパ各国の植民地におけるココア、コーヒー、砂糖の生産、ヨーロッパ内部におけるココアの加工、ならびに砂糖の精製は、資本主義発展のうえで大きな役割をはたした。
同書 p.204


各国政府は、奢侈を奨励する方向で施策をくりひろげた。
十七世紀を通じ、すみやかな歩みで資本主義が発展した国々では、贅沢禁止令が消滅していった。
『恋愛と贅沢と資本主義』第五章 奢侈からの資本主義の誕生 p.238

モンテスキューはいっている。
「王国では奢侈はなくてはならぬ。もし富者が贅沢のための消費をあまりしなくなると、貧乏人は飢えてしまうだろう。」
同書 p.240

奢侈はたしかに害悪であり、罪であるけれども、産業を促進することによって全体には利益をもたらすものであるというこうした考え方は、イギリスにもひろまっていった。「浪費の悪徳は、個人にとって害はあるが商業にとってはそうはいえない。」倫理的色彩の強いデイヴィット・ヒュームさえ次のような結論に達した。
同書 p.241

皆が金を使わないデフレの時代に苦しむ日本経済を救うのが、アベノミクスの掛け声に引かれてその初端を見せ始めた奢侈であろうことは疑いのない事実。

(c)仕立業 手工業的仕立業からは、十八世紀の間に個々の企業が台頭し、資本主義的企業に変わっていった。上品なお客たち、すなわちきちんと金を払ってくれる客のために働いてきた企業内では奢侈品もつくられた。
奇妙なことに紳士服仕立ての分野では、まず既製服のの仕立てが、今日ではもはや通例ではないような方式で資本主義の土台の上にのるようになった。贅沢な既製服の生産は、十八世紀では全然禁じられていなかったように思われる。贅沢な既製服が、イギリスにもフランスにもあったことが指摘されている。
同書 pp.325-326

きわめて多くの場合(すべての場合ではない!)、資本主義に門戸を開き、資本主義をきわめてのんびりした都市の手工業のなかにもちこんだのは、実に奢侈消費であった。私の論証は、私の見解の正しさを証明してくれたものと思う。
同書 p.341

こうして、すでに眺めてきたように、非合法的恋愛の合法的子供である奢侈は、資本主義を生み出した。
p.346

ファッションが、人間的活動を醸成させ、現代人の文明を作り、資本主義をも生み、今の人類の発展を作ったのだと言えよう。


※本書内の引用中、簡単な漢字の多くがひらがな書きされているのは、私の変換ミスでない限り、本書の記述にならった。