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私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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発達障害の人とどう接すれば良いのか

こころの記録 社会

mixiで、僕のマイミクの一人が発達障害についてつぶやいていて、なんだかなあと思うところがあったので噛み付いてみた。彼の言いたいところは僕の受け取ったところとは違ったようだが、そのつぶやきに着想を得て僕の思っているところを膨らましてみた。幅広い人に見てもらって感想をもらえればと思う。

最近耳にする機会も多くなってきたのじゃないかと思う発達障害という言葉だが、まだまだ内容はあまり理解されていないと思う。身近でトラブルに遭遇したことのある人も少なくないのではないだろうか。

ところで、発達障害という状態にある者は異常であり、非難されることが当然なのだろうか?(こういう視点は自由論?倫理学?になるのかな?誰か適切な言葉を教えてください。)

発達障害の問題点は、コミュニケーションの様式が違うことで、一般的な人との間で齟齬を来すことだ。だがそれは必ずしも発達障害の人の方に非があるからなのだろうか?


発達障害は何が問題なのか

発達障害について以前に少し触れたことがある。今見ると随分汚い構成だが、ここ*1の中段付近に説明しているので参照してもらおうと思ったがあまり説明していなかったのであらためて書く。

端的に言えば「空気が読めない人」と思われていることが多い。特定の物事に対して強い関心やこだわりがあり、並々ならぬ情熱を注ぐことがある。コミュニケーションにおいて、こう言えば相手はこう捉えるだろうという予想が、通常の人との間にズレがある。表情やジェスチャーから意味を読み取ったり、たとえ話や冗談がわからなくて混乱する。そのため周囲には生真面目、とか恐い、とかちょっと変、と思われてしまう。例えば、社交辞令で「暇な時に来てください」と言ったら毎週決まった時間にやってくるようになった。軽い挨拶のつもりで「元気?」とか「いい天気ですね」と言っても詳細に今の状態を説明しようとする。他人とのコミュニケーションの不和に悩み、二次障害として鬱病や引きこもり状態を伴っていることもある。


左利きは障害か

ここで別の例として、左利きの人間のことを考えてみて欲しい。左利きの人間は、右利きの人間に比べると少数派*2であり社会生活を送る上で多少の不便がある。例えば、右利き用に設計された一般的なはさみの持ち手が使いにくかったり、自動改札機の投入口が自分の使いやすい方とは反対にあったりする。あらゆる機械の操作部は右側に重点的に配置されていて、拳銃やオートバイも右利きが前提である。右肩上がりの文字も右手の方が書きやすい。

では左利きの人間に対して、それはおかしいことだから矯正するようにと、我々は言うべきなのだろうか。実際幼少期にそのように教育されている場合も多いようだが、精神的なストレスから吃音をもたらすような悪影響が出ることもある。左利きが間違っているわけではない。

左利きの人間は、左手と同じように右手を使えるようにトレーニングすることで対処することもあるし、また左利きでも同じように使えるユニバーサルデザインのはさみを使うことで解決する場合もある。



発達障害の人間も、これと似たようなものだ。本人が他人との認識の違いを意識しトレーニングすることで対症療法的に人との衝突を回避する手法を身につけることができる。また周りの人が発達障害の人を混乱させる曖昧な受け答えを避け具体的にするようにし、その人が苦手とするところは責めない(責めたってできるようにはならない)。どのように接するのが楽なのかをよく相談する。自分の性格を変えたいと思って変えるのが難しいように、口で言うほど簡単ではないし、周りの人の理解がとても大切である。だがそういう対処があれば、発達障害でない定型発達の人間と同じように問題なく社会生活を送ることが可能なのだ。

たまたま大多数を占める者にとって使いやすい物が標準的なものとして認識されているだけであって、それが絶対的に唯一正しいという根拠などない。もしかしたら発達障害と言われている人たちが持っている感覚やコミュニケーションの手法が常識的である世界があったとしてもおかしくはない。そこではあなたが極普通だと思っている行動が「ちょっと変」ということになる。世界では国際語として、英語やフランス語が使われてきたが、歴史上の理由であってそれらの言語が他より優れているからではない。場所や状況に応じてアラビア語や中国語を使えば良いし、譲れるところで譲り合えば良い。

あらゆる場合で常に全ての人に対して用意をしておかなくてはいけないとは言っていない。比率から言って多数を占める者に合わせて設計をしておくことは合理的である。しかし多数に所属する者が、それが常識だと振りかざして、他の者に対して自らに合わせることを強要するのは暴力的であり間違っている。相手の態度や言動が非常識だと思ったら、なぜその人はそのように振る舞うのか想像してみて欲しい。

ノブレス・オブリージュ

僕は大学で頭のいい人たちを見てきた。教養のある人たちのシニカルな笑いは魅力的である。しかし他人の欠点を口汚く冷笑して悦に入っているだけの人を見ると、僕は残念な気持ちになる。せっかくあなたには状況が俯瞰できていて問題がわかっているのだから、その問題が建設的な方向に進むように働きかけてみればいいと思うのに。確かに面倒だ。既に苦労させられているのになぜさらに労力をかけなければいけないのだと思うかもしれない。立場上口を出すのが難しいこともあるかもしれない。

しかし能力のある人に自主的に知恵を出し、工夫を凝らして欲しいと思う。もちろんこういうことは強制はできない。その人が譲らなくてはいけない義務など無いのだから。だが「不機嫌な職場」やメンバー間の不和によって仕事の効率や成果が低下することは、全体にとって損失だと思うからだ。第一に能力のある人が寛容に譲歩することが最も効率が良く。第二に、能力のある人が能力があるのは、それまでの経済的状況、健康な身体と精神、関わってきた人物などの恩恵の上に成り立っているからだ。これらに欠いていたために潜在的可能性がありながら、ねじ曲がって育ってしまった人もいる。頭のいい人が必ずしも高貴な身分や待遇を受けているとは限らないが、高度な知的労働ができることを社会に還元して欲しいと思う。

僕はことあるごとに理解と対話が必要だと述べている。馬鹿とは話ができないと切り捨てることは簡単だが、自分のいる場所の居心地をよくするためにできることをしようと思う。小難しいことではなく、心の持ちようでできることだ。

礼はいいわ。愚民を助けるのは、エリートの義務ってだけよ。

by 式波・アスカ・ラングレー in『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:破』