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私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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私の自殺観

社会 こころの記録

自殺については過去にもここ*1とか他にも書いている。これは別のところに書いていたもの。

私の結論としては、自殺を止める倫理的根元的な理由なんかないってこと。自分で作った家族がいて、十分な準備ができてないで死んだら無責任ではあるが、それとて一人の人が死のうと決断するまで追い込まれたんだから他人がとやかく言うべきではない。とやかく言いたいならそれが実行される前に関わるべきだ。

結局人が自殺するのを止めようとするのは、この世界は明日誰かが死なないことを前提に動いているからに過ぎない。
共同体から一足先に離脱しようとする人に変わらず同じ運命を背負わせようとする卑怯な動機でしかない。その人が死ぬことによって自分の人生に少しでも影響が及ぶのが恐いのだ。

自殺は個人の自由か?という命題に対しては、そうあるべきと答える。自己決定権がある以上、自己の死に関してもそれをコントロールする自由は保障されているべきだ。私は愚行権というものを認める立場に立つから、たとえそれが社会一般の価値観に照らし合わせて馬鹿げていると言われようとも、責任能力を有した成人の判断は妨げられない。日本の法において自殺は禁じられていないので、自由であると言える。人は生きることを自由にはできないが、死を選ぶこと(選ばないこと)は自由にできる。これは思想の問題ではなく純然たる事実だ。



ただし最近思うようになったのは、「死のう」「死ねばいい」という選択肢を持ってるといざというときに踏ん張りが効かない。そういう考えを日頃から持つことはより容易にそれを実行させる、ハードルを下げる役割を果たすかもしれない。だから同義反復的になるかもしれないが、死ぬ予定のない人は死のうと思わないでおいた方がいい。

あとからあとから「死にたい」という発想が出てきてしまう人はどうすればいいんだ!



ところで日本には伝統的に、大事なプロジェクトを失敗したり裏切ったりして一家の名を汚したりした時に、腹をかっ切って詫びるという独特のメンタリティがあった。

あるいは現代日本人の自殺者が年間3万人を越えるようになって久しいが、大半を占めるのは中高年男性。*2これには生命保険が原因という説がある。住宅ローンを組んで一家の大黒柱が失業したりして返済できなくなって自殺すると、残りの債務が生命保険でチャラになる仕組み(団体信用生命保険:通称団信*3)がある。せめて家族に家を残すことができる。日本の土地価格の高さや中古住宅にほとんど価値がつかない点なども問題。

こうした理由による自殺は本当に個人の自由による自殺かと言うと、そうは呼べないように思う。構造的暴力、社会の不均衡による犠牲者だろう。


閑話休題。自殺は自由かという問いは、自殺が善い行いなのかどうかという観点に言い換えられると思う。これは宗教的発想になってくる。不勉強だが、キリスト教イスラム教では自分の都合による自殺は禁じられているのではなかったかと思う。イスラームでは明確に禁止、キリスト教では聖書に記されてはいないものの、長い間自殺は罪だという考えが支配的であったようだ。私の独断的見方では、宗教は共同体の生活を円滑に行うためにあるから、必然的にそうなるのではないかと思う。そうでないと悲観的になった集団が集団自殺に向かったときに止められなくて不都合だから。



以上から、自由意志により自殺したいと思う者を止められる理由はないと私は思う。だが、死なないで済む解決法があるならそっちを選びたいとも思う。自殺の問題をたどっていくと、なぜ自殺をしたいのか?死ぬとどうなるのか?という問いに行き着かざるを得ないと思うが、それはまた別の機会に。