私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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陰転

レポートを一本無駄に長く書き上げてから何もできなくなった。テストも受けに行っていない。また、人生を棒に振ろうとしている。


留学が決まってから、ちょいちょい話をする人ができた。なぜだろう。俺は何も変わっていないと思うのだけど。



先日も死のうと一日うろうろしていて、結局死ぬ勇気がなくて、生きたくて、生きている。無暗に、死にたいとか、死ぬとか書くのは止めようと思う。友達に呆れられたから。それに誰も相手してくれなくなる、ってその通りだと思うから。確かにその時はこれが最後だ、と思っているんだけど、結局できなくて我に帰ってやらかした自分に火が出るほど恥ずかしくなって惨めになる。でも死にたくなるのは本当なんだ。

なんで死にたくなるんだよ。毎日のように死にたくなる。こないだ友達に怒られてもうしないぞと思ったけど、次の日にはもう絶望的な気分だった。人と会って少し話すとましになるんだけど、一人でこもるとダメだ。かといって一人になれないのも落ち着かなくてストレス。マンションの高層階怖い。このままだと「はずみで」死にそう。

死にたくないよ。

どうして皆が本読んだり、勉強したり、どこか出かけたり、友達と楽しい時間過ごしたり、有意義に過ごしている時に俺は、死にたいって考えさせられてるんだ。死にたい気持ちを忘れるために、人より何時間も余分に寝てなくちゃいけないんだ。悔しいよ。俺だってポジティブに明るく生きたいよ。考えずにいられるならそのほうがいいに決まってるんだ。

最近、迷惑な人や話の通じない人を見ると、彼がそういう考え方を志向するのは遺伝子的に組み込まれている部分があるんだなと思って、見放す態度をとる必要性を感じるのだけど、自分がそうなのだと思ったら絶望的だ。死にたいと願望するなんて、どう考えても生物的に劣等な遺伝子じゃないか。