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私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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山田詠美『ぼくは勉強ができない』

コスモ読書会で読んだ本。勉強だけできても人間としてどうしようもない、という過激なテーマにして高校の国語教科書に採用されたりとなかなか曰く付きの話である。

確かに面白い。魅力的な登場人物、ぐいと引き込まれる展開。面白くてさくさく読めてしまうのだ、しかし。

これはコメディだな、と私は受け取った。高校生の主人公がバイトしているバーの年上の女の人と付き合っていて、その店に教師と一緒に飲みに行くとか、若くて女の匂いのムンムンする母親がいて、アクティブで格好いいじいちゃんがいて、ってそうそうありえるか。

大体こんな台詞を吐くやつが現実世界にいたらこんなに人気者になるだろうか?絶対イラッとするぜ。斯く言う私も台詞っぽい言い回しは嫌いではないのだが、こういうのが許されるのは恋仲にある男女の間だけじゃないかと思う。

ぼくは小説が読めない

私は小説の読み方というものがわからない。所詮作り話じゃないか、と思ってしまう。主人公が喜ぶのも苦しむのも、奇妙な出来事や感動的な展開も、全部作者の小手先次第だよね?

部分部分、登場人物に感情移入して笑ったり、憤ったり、思わず涙を浮かべたりすることはある。この話でもそういう場面はあった。が、お笑い芸人のやるコントと一緒で(コントも小説も、あらゆる創作はそれ自体素晴らしいと思うのだが)、基準は面白いか面白くないか、好きか嫌いか。それ以上に全体を俯瞰して見てどういう感想を持てというのだろうか。ここで私だったら・・・とか考えてもあんまり意味がないじゃないか。作者はこういうのが面白いと思って書いたのだし、技術的な巧拙を言うことはできても、どういうプロットを描くかは個々の感性であって他人がどうこう言うことだろうか。

よっぽど緻密に練り上げられたリアリティーのあるストーリーか、逆に現実世界とは遠く離れたところで起こるファンタジーはまだ楽しむことができるのだが、そのどちらでもない、ありそうでありえない中途半端な作品にはどういうスタンスで臨めばいいのか困ってしまう。

だから私は、新書は読めても小説は読めない。

感想?

「時差ぼけ回復」の章はよくわからなかった。登場人物の回想と想像だけで説明されて、結局最後まで片山君の自殺の真相は明かされない。あぁ、気持ち悪い。結論を読者に投げないで欲しい。こういう話の持って行き方はありえるが、もし仮に彼が「時差ぼけ」で死んだのだとしてもそれで何が言いたいのだろうか。他の人とは違うリズムで生きてる人間もいるんだよってこと?

人間の生理的な周期は25時間を基本としていて、地球の一日である24時間に合わせる為に通常は朝日光を浴びることで毎日リセットしているという話は、医学的にも根拠のある話だ。結構有名な説であるだろう。睡眠の周期がちゃんと取れない人のために朝人工的に強い光を当てる治療法や、どこぞの航空会社では機内の照明を到着地の時間に合わせた太陽光線の変化に似せることで時差ぼけを起きにくくするという取り組みもあったはずである。片山君もこの治療を受ければ良かったんではないか。


私がこの話で一番楽しく読めたのは、秀美と、あばずれビッチな真理との軽妙な会話。それと、完璧で抜け目のない可憐な女の子を演じ続ける山野の痛烈な告白がしびれる。普段の言動が演技っぽい人もそうでない人も、人間なんて皆、演技してるんだよね。他者を意識しないで生きることなど不可能に近い。自然体、とか、等身大の自分、とか(笑)

ぼくは勉強ができない
山田 詠美
新潮社 ( 1996-02 )
ISBN: 9784101036168
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