私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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決意

復学することにした。

だけどもう大学の人間は誰も信じられなさそうだ。淡々と自分のことをやるしかない。


ものの考え方が歪んでいる(抑圧している感情がある)のが原因だと思っていて、休学を決めたときそれを修正しなきゃと思っていたが、今はもっと歪んだような気がする。悲しいが、しょうがない。「あきらめる」能力が少し身に付いたということなのかもしれない。他人はみんな敵だ、表面的にはいい顔していてもいつ裏切られるかわからない、都合が悪くなったら黙って離れていく人間ばかりだ、と最初から思っておけば落胆しなくて済む。

メールや電話で話を聞いてくれ、たまに一緒に酒を飲んでくれる人、月に一度くらいの酷く取り乱した時にはちゃんと意見を言ってくれる人、そういう人がいないか探していた。精神的余裕・時間的余裕から、そんな都合のいい人は存在しないので、何も友達にそこまで求めてはいない。友達に忌避されるのには慣れてしまった。サービスとして提供してくれる人がいるなら月に数万円払ってでも契約したいと思った。そんな人はいなかった。カウンセラーと呼ばれるような人は時間的にも内容的にも極限定的なことしかできなく(せいぜい週に一度の決められた時間に出向いて一方的に聞いてもらうだけだ)私の求めるものではない。非治療者で言えばまともに話の通じない(話を聞く分には面白いが参考にならない)人しかいなかった。


「人は誰でも一人だ」とか「みんな悩んでる」とか。安易に言うなよ。お前らなんだかんだ言って喋る相手がいるじゃないか。みんなで笑いあってうまく付き合ってるじゃないか。そうしてる人たちが本当に幸せかどうかわからない、ってそんなことはわかってるよ。静かに一人でいたい人は好きにすればいいけど、少なくとも俺は表面的にうまくやろうとしてこんだけ努力してるのにうまく馴染めないってやっぱり俺のどこかに欠陥があるんじゃないだろうか。俺と皆とは人間関係のプロトコルが違うんじゃね?と思ったりもした。「空気読む」とか「言わなくても察する」とかもうたくさんだ。全部を言わなくてもいいけど、思ってないことまで言うなよ。「相談乗るよ」とか「今度飲みに行こう」とかその気がないなら言うなよ。今度飲みに誘ったやつはその場で手帳に予定埋めるからな。




今日から授業があった。終わってから、1時間くらいかけてメール打って一つの決意を送った。