私は何を知っているか?

Mark/まあく タイトルはミシェル・ド・モンテーニュ(1533~1592)の言葉 「Que sais-je?(私は何を知っているか?)」

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発達障害の人とどう接すれば良いのか

mixiで、僕のマイミクの一人が発達障害についてつぶやいていて、なんだかなあと思うところがあったので噛み付いてみた。彼の言いたいところは僕の受け取ったところとは違ったようだが、そのつぶやきに着想を得て僕の思っているところを膨らましてみた。幅広い人に見てもらって感想をもらえればと思う。

最近耳にする機会も多くなってきたのじゃないかと思う発達障害という言葉だが、まだまだ内容はあまり理解されていないと思う。身近でトラブルに遭遇したことのある人も少なくないのではないだろうか。

ところで、発達障害という状態にある者は異常であり、非難されることが当然なのだろうか?(こういう視点は自由論?倫理学?になるのかな?誰か適切な言葉を教えてください。)

発達障害の問題点は、コミュニケーションの様式が違うことで、一般的な人との間で齟齬を来すことだ。だがそれは必ずしも発達障害の人の方に非があるからなのだろうか?


発達障害は何が問題なのか

発達障害について以前に少し触れたことがある。今見ると随分汚い構成だが、ここ*1の中段付近に説明しているので参照してもらおうと思ったがあまり説明していなかったのであらためて書く。

端的に言えば「空気が読めない人」と思われていることが多い。特定の物事に対して強い関心やこだわりがあり、並々ならぬ情熱を注ぐことがある。コミュニケーションにおいて、こう言えば相手はこう捉えるだろうという予想が、通常の人との間にズレがある。表情やジェスチャーから意味を読み取ったり、たとえ話や冗談がわからなくて混乱する。そのため周囲には生真面目、とか恐い、とかちょっと変、と思われてしまう。例えば、社交辞令で「暇な時に来てください」と言ったら毎週決まった時間にやってくるようになった。軽い挨拶のつもりで「元気?」とか「いい天気ですね」と言っても詳細に今の状態を説明しようとする。他人とのコミュニケーションの不和に悩み、二次障害として鬱病や引きこもり状態を伴っていることもある。


左利きは障害か

ここで別の例として、左利きの人間のことを考えてみて欲しい。左利きの人間は、右利きの人間に比べると少数派*2であり社会生活を送る上で多少の不便がある。例えば、右利き用に設計された一般的なはさみの持ち手が使いにくかったり、自動改札機の投入口が自分の使いやすい方とは反対にあったりする。あらゆる機械の操作部は右側に重点的に配置されていて、拳銃やオートバイも右利きが前提である。右肩上がりの文字も右手の方が書きやすい。

では左利きの人間に対して、それはおかしいことだから矯正するようにと、我々は言うべきなのだろうか。実際幼少期にそのように教育されている場合も多いようだが、精神的なストレスから吃音をもたらすような悪影響が出ることもある。左利きが間違っているわけではない。

左利きの人間は、左手と同じように右手を使えるようにトレーニングすることで対処することもあるし、また左利きでも同じように使えるユニバーサルデザインのはさみを使うことで解決する場合もある。



発達障害の人間も、これと似たようなものだ。本人が他人との認識の違いを意識しトレーニングすることで対症療法的に人との衝突を回避する手法を身につけることができる。また周りの人が発達障害の人を混乱させる曖昧な受け答えを避け具体的にするようにし、その人が苦手とするところは責めない(責めたってできるようにはならない)。どのように接するのが楽なのかをよく相談する。自分の性格を変えたいと思って変えるのが難しいように、口で言うほど簡単ではないし、周りの人の理解がとても大切である。だがそういう対処があれば、発達障害でない定型発達の人間と同じように問題なく社会生活を送ることが可能なのだ。

たまたま大多数を占める者にとって使いやすい物が標準的なものとして認識されているだけであって、それが絶対的に唯一正しいという根拠などない。もしかしたら発達障害と言われている人たちが持っている感覚やコミュニケーションの手法が常識的である世界があったとしてもおかしくはない。そこではあなたが極普通だと思っている行動が「ちょっと変」ということになる。世界では国際語として、英語やフランス語が使われてきたが、歴史上の理由であってそれらの言語が他より優れているからではない。場所や状況に応じてアラビア語や中国語を使えば良いし、譲れるところで譲り合えば良い。

あらゆる場合で常に全ての人に対して用意をしておかなくてはいけないとは言っていない。比率から言って多数を占める者に合わせて設計をしておくことは合理的である。しかし多数に所属する者が、それが常識だと振りかざして、他の者に対して自らに合わせることを強要するのは暴力的であり間違っている。相手の態度や言動が非常識だと思ったら、なぜその人はそのように振る舞うのか想像してみて欲しい。

ノブレス・オブリージュ

僕は大学で頭のいい人たちを見てきた。教養のある人たちのシニカルな笑いは魅力的である。しかし他人の欠点を口汚く冷笑して悦に入っているだけの人を見ると、僕は残念な気持ちになる。せっかくあなたには状況が俯瞰できていて問題がわかっているのだから、その問題が建設的な方向に進むように働きかけてみればいいと思うのに。確かに面倒だ。既に苦労させられているのになぜさらに労力をかけなければいけないのだと思うかもしれない。立場上口を出すのが難しいこともあるかもしれない。

しかし能力のある人に自主的に知恵を出し、工夫を凝らして欲しいと思う。もちろんこういうことは強制はできない。その人が譲らなくてはいけない義務など無いのだから。だが「不機嫌な職場」やメンバー間の不和によって仕事の効率や成果が低下することは、全体にとって損失だと思うからだ。第一に能力のある人が寛容に譲歩することが最も効率が良く。第二に、能力のある人が能力があるのは、それまでの経済的状況、健康な身体と精神、関わってきた人物などの恩恵の上に成り立っているからだ。これらに欠いていたために潜在的可能性がありながら、ねじ曲がって育ってしまった人もいる。頭のいい人が必ずしも高貴な身分や待遇を受けているとは限らないが、高度な知的労働ができることを社会に還元して欲しいと思う。

僕はことあるごとに理解と対話が必要だと述べている。馬鹿とは話ができないと切り捨てることは簡単だが、自分のいる場所の居心地をよくするためにできることをしようと思う。小難しいことではなく、心の持ちようでできることだ。

礼はいいわ。愚民を助けるのは、エリートの義務ってだけよ。

by 式波・アスカ・ラングレー in『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:破』

私の自殺観

自殺については過去にもここ*1とか他にも書いている。これは別のところに書いていたもの。

私の結論としては、自殺を止める倫理的根元的な理由なんかないってこと。自分で作った家族がいて、十分な準備ができてないで死んだら無責任ではあるが、それとて一人の人が死のうと決断するまで追い込まれたんだから他人がとやかく言うべきではない。とやかく言いたいならそれが実行される前に関わるべきだ。

結局人が自殺するのを止めようとするのは、この世界は明日誰かが死なないことを前提に動いているからに過ぎない。
共同体から一足先に離脱しようとする人に変わらず同じ運命を背負わせようとする卑怯な動機でしかない。その人が死ぬことによって自分の人生に少しでも影響が及ぶのが恐いのだ。

自殺は個人の自由か?という命題に対しては、そうあるべきと答える。自己決定権がある以上、自己の死に関してもそれをコントロールする自由は保障されているべきだ。私は愚行権というものを認める立場に立つから、たとえそれが社会一般の価値観に照らし合わせて馬鹿げていると言われようとも、責任能力を有した成人の判断は妨げられない。日本の法において自殺は禁じられていないので、自由であると言える。人は生きることを自由にはできないが、死を選ぶこと(選ばないこと)は自由にできる。これは思想の問題ではなく純然たる事実だ。



ただし最近思うようになったのは、「死のう」「死ねばいい」という選択肢を持ってるといざというときに踏ん張りが効かない。そういう考えを日頃から持つことはより容易にそれを実行させる、ハードルを下げる役割を果たすかもしれない。だから同義反復的になるかもしれないが、死ぬ予定のない人は死のうと思わないでおいた方がいい。

あとからあとから「死にたい」という発想が出てきてしまう人はどうすればいいんだ!



ところで日本には伝統的に、大事なプロジェクトを失敗したり裏切ったりして一家の名を汚したりした時に、腹をかっ切って詫びるという独特のメンタリティがあった。

あるいは現代日本人の自殺者が年間3万人を越えるようになって久しいが、大半を占めるのは中高年男性。*2これには生命保険が原因という説がある。住宅ローンを組んで一家の大黒柱が失業したりして返済できなくなって自殺すると、残りの債務が生命保険でチャラになる仕組み(団体信用生命保険:通称団信*3)がある。せめて家族に家を残すことができる。日本の土地価格の高さや中古住宅にほとんど価値がつかない点なども問題。

こうした理由による自殺は本当に個人の自由による自殺かと言うと、そうは呼べないように思う。構造的暴力、社会の不均衡による犠牲者だろう。


閑話休題。自殺は自由かという問いは、自殺が善い行いなのかどうかという観点に言い換えられると思う。これは宗教的発想になってくる。不勉強だが、キリスト教イスラム教では自分の都合による自殺は禁じられているのではなかったかと思う。イスラームでは明確に禁止、キリスト教では聖書に記されてはいないものの、長い間自殺は罪だという考えが支配的であったようだ。私の独断的見方では、宗教は共同体の生活を円滑に行うためにあるから、必然的にそうなるのではないかと思う。そうでないと悲観的になった集団が集団自殺に向かったときに止められなくて不都合だから。



以上から、自由意志により自殺したいと思う者を止められる理由はないと私は思う。だが、死なないで済む解決法があるならそっちを選びたいとも思う。自殺の問題をたどっていくと、なぜ自殺をしたいのか?死ぬとどうなるのか?という問いに行き着かざるを得ないと思うが、それはまた別の機会に。

陰転

レポートを一本無駄に長く書き上げてから何もできなくなった。テストも受けに行っていない。また、人生を棒に振ろうとしている。


留学が決まってから、ちょいちょい話をする人ができた。なぜだろう。俺は何も変わっていないと思うのだけど。



先日も死のうと一日うろうろしていて、結局死ぬ勇気がなくて、生きたくて、生きている。無暗に、死にたいとか、死ぬとか書くのは止めようと思う。友達に呆れられたから。それに誰も相手してくれなくなる、ってその通りだと思うから。確かにその時はこれが最後だ、と思っているんだけど、結局できなくて我に帰ってやらかした自分に火が出るほど恥ずかしくなって惨めになる。でも死にたくなるのは本当なんだ。

なんで死にたくなるんだよ。毎日のように死にたくなる。こないだ友達に怒られてもうしないぞと思ったけど、次の日にはもう絶望的な気分だった。人と会って少し話すとましになるんだけど、一人でこもるとダメだ。かといって一人になれないのも落ち着かなくてストレス。マンションの高層階怖い。このままだと「はずみで」死にそう。

死にたくないよ。

どうして皆が本読んだり、勉強したり、どこか出かけたり、友達と楽しい時間過ごしたり、有意義に過ごしている時に俺は、死にたいって考えさせられてるんだ。死にたい気持ちを忘れるために、人より何時間も余分に寝てなくちゃいけないんだ。悔しいよ。俺だってポジティブに明るく生きたいよ。考えずにいられるならそのほうがいいに決まってるんだ。

最近、迷惑な人や話の通じない人を見ると、彼がそういう考え方を志向するのは遺伝子的に組み込まれている部分があるんだなと思って、見放す態度をとる必要性を感じるのだけど、自分がそうなのだと思ったら絶望的だ。死にたいと願望するなんて、どう考えても生物的に劣等な遺伝子じゃないか。

問:自殺しようとしている人を止める言葉を考えてください

2014/7追記:
自殺しようとしている人が身近にいて対応を考えていらっしゃる優しい方へ。
以下のページの記述が参考になるかと思います。

問:今、あなたの目の前で自殺しようとしている人を止める言葉を考えてください。ただし、以下の言葉には後述する反論が想定されます。


死ぬ覚悟があれば何だってできる。
本当にそうでしょうか。確かにどうしたって生きようとする生物の本能的部分に逆らって死のうとすることは、エネルギーを必要とします。本当に抑鬱状態で塞ぎこんでいる時は死のうとする気力さえありません。そういった意味で人が死のうと覚悟した時は決意めいたエネルギーがあります。しかしだからと言ってそのエネルギーは他に転用可能なものでしょうか。何かを得たいと言う欲望、例えば性的な欲望は生への欲望と本質的に同じ方向を向いているから変換が可能だと思いますよ。しかし生命活動を終わらせたいという欲望は生とは真反対の方向を向いています。そんなことができるとは到底思えません。散々生きることに苦しみ、しがらみから解放されたいと思っている人に向かって生きろと言うことは、さらに苦しめと命令していることに同じです。そんな絶望的なこと言わないでください。

生きていればいいことがあるさ。
一体何の根拠があってそんなことが言えるのでしょうか。その楽天的な思考に怒りさえ感じます。そりゃあ生きていていいこと、楽しいことが全くないとはいいませんよ。きっと美味しいものを食べられるでしょうし、感動的な景色を見られるかもしれませんし、感激するようなセックスができるかもしれません。けどそんなことは最早問題ではないのです。それにも優る苦痛があって耐え難いと予想される。だからもう脱したいのです。その人が苦しんでいることに対してあまりに無理解な発言だと思います。

生きたくても生きられない人がいるのに自分から死ぬなんて横暴だ。
これもたまに聞く例ですけど、よく考えたらおかしいのです。アフリカで食料に飢えている子供達でも、難病で成功率の限りなく低い手術を待っている人でもいいですが、生まれた環境も能力も何から何まで違う。どんなに想像力を働かせたところで所詮他人は他人。その人にはなれないのです。自分が、亡くなった誰々の分まで生きると決意して生きる希望にするのは勝手ですが、それを他人に強制したって無理です。もしこの命を誰かにあげられるなら喜んであげますが(余談ですが私は臓器移植には賛成です)、それは不可能です。絶対的に不可能なことを仮定に出してきて、それができないのならもう一つの選択肢に従えと言うのは議論におけるルール違反です。

命は貴重で大切なもの。粗末にしてはいけない。
命は貴重だと言う点には同意します。一度失えば二度と手に入らないものであり、だからこそ最大限に尊重しなければいけないものです。生存権は人間の最も基本的な権利であり、他者によって侵害されることがあってはなりません。しかし自己決定権に従って十分に考えた上で自らの命の処分を決定することも同時に権利としてあります。それが例え愚行権と言われようともその行使は認められるべきです。

死は運命(神)のみが決めること。死にたいから死ぬなんて罪だ。
よくわかりません。私は絶対的な神の存在は否定します。同時に私は神道的世界観や、宗教の概念を肯定しますが、これらはそのように考えたほうが合理的で平穏をもたらすことから人によって創られたのでしょう。ともかくこの世界は表象であり、全ては私の死と共に消失します。死んだらおしまいです。
それにもし、死んではいけない運命なのだとしたら、どんなに死のうと努力したところで絶対に死ねないのではないでしょうか。運命で全てが決定されているとしたら、私は何も自分の意思で考えることができないことになります。それならばある意味で楽だと思いますが、思考停止はそれこそ罪であると思うし、また現実的でないと思います。

生きることは元々辛いこと。だから少しでも幸せになれるように努力して生きるんじゃないか。
以前まで、そう思っていました。生きるのは苦しいことである。楽しく生きられるように努力して、そして死ぬときに幸せな人生だったと思えるように継続することが生きる目的であると。しかし、それだけでは生きるためのモチベーションを保つのには困難であると言う結論に至りました。人が前向きに生きるには希望が必要です。人が希望を失うのは、将来が見えないときと、将来が見えてしまったときだと思います。将来が見えないのは、いくら努力しても生活が向上する兆しが感じられないとか、牢屋に入れられて死刑の執行されるのを待っているときとか、将来が見えてしまったのは、この会社にいても出世できないのがわかってキャリアが見えてしまったときとか。希望とは、将来が不確定ながら自分の手によって創造できるときに生まれるものなのだと思うのです。

さて翻ってみて私の場合、希望が持てなくなってしまった。それが自分の努力で変えられるものならそうするべきでしょう。しかし内的な能力・資質によるもので自分では如何ともし難い。仕事だとか勉強だとかのやらねばならないことどころか、趣味的な自分がやりたいこと、読書だとか旅行だとか写真とかさえ十分に実現できない。双極性Ⅱ型障害(躁鬱病)のせいなのか、感情の波が激しいし、すぐに引きこもるし、バランスよく物事ができない。そんな人間がまともに生きて人生を楽しむことができるでしょうか。私は幸せになることはできない。むしろ一日長く生きれば生きたただけ将来に受ける苦痛が大きくなっていく。そして周りで私に関わっている人々にも迷惑をかけることになる。だから一日も早く死なねばならないと思うのです。

お前が死ぬと私が悲しいから死ぬな。
これは随分勝手な言い分だと思います。あなたを悲しませないためだけに私は生きていなければならないのですか。私の人生に責任を持たねばならないのは私だけだし、あなたは一体私に何を提供してくれると言うのでしょうか。少なからず身近な人が死ねば精神的ショックを受けるのは確かでしょう。しかし大抵の人、特に私の周りにいる人たちは少しすれば私のことなどあっさりと忘れてしまうに決まっているのです。大してその人のことを想ってもいないのに気軽に口にしないで欲しい。*1もし本当に、この人のために死ねないという精神的紐帯を感じられる人、自分で作った家族がいたら死のうとはしないのかもしれませんね。私は自分より上の家族(世代)には恩義は感じても責任はないという持論ですから。

そもそもこの社会は通常明日人が死ぬことを想定して活動していません。実際には今大地震が来てつぶされるかもしれないし、道端で通り魔に襲われて死ぬかもしれないのに。まぁ生きているだろうという可能性に基づいて行動しているに過ぎないのかもしれませんが、そのことを当たり前に思わないで欲しい。ぽんぽん死なれては残された者が困るという理屈で、生きていなければならないと迫る。皆生きることを強いる共犯者なのです。そのことに罪を感じて欲しいし疑問を持って欲しい。なぜ死んではいけないのか。

親より先に死んではいけない。親や周りの人から受けた恩を返していないのに死んではいけない。
これは心情的には反論しにくいのですが、やはり正しくないと思います。先に書いたように、上の世代に対して恩義や尊敬は持ちますし扶養義務もありますが、自身の死への願望の前にはキャンセルされると思います。究極的には自分の信念ですから、自分を殺してまで従わなくては(生きなくては)いけないとは思いません。人は失敗や迷惑をかけながら人間的成長をしていくものです。恩を受けるのは自然なことですしそれがないと成長できないでしょう。下の世代を育てるのは上の世代の義務ですし、期待するリターンが得られなかったとしても受け止めるべきでしょう。

ごちゃごちゃ言ってないでさっさと死ぬなら死ね。
以上から、自殺を止める合理的な理由はないように思います。じゃあもう死んでしまえばいいと思うのですが、歯止めとなっているのが躊躇って失敗したらという恐怖ですよね。不可逆的な損傷を負って後遺障害が残ったらと思うと目も当てられないし、社会的な信用もないし(これはこの文章を発表した時点でダメかもしれませんが)戻るところがないでしょう。もう大学には戻れないと思いますし。それこそ人生詰んで、死のうにも自分で死ぬ能力さえなくなったら本当の恐怖です。

私がなぜこんなにも苦しいのかは、友達がいないからでも、複雑性悲嘆*2のせいでもなかったのだと思います。これらは副次的な要因として小さくはないけども、一義的には自分が如何に無知で、それだけでなく知らないなら知らないなりに社会で生きていくためのバランス感覚も持ち合わせていないことが分かったのです。平たく言えば自分の才能に限界を感じたと言うことでしょう。これは大学に来て思い知ったことで、それがわかっただけでも大学に意味を見出すことができるかもしれません。



こういう風に死ななければならないという義務感があって、自分の考えを数日かけて書いてたらまた命が繋がってしまった。本当に頭の処理能力が低いのでアウトプットするのに膨大な時間がかかるのだ。

来月から留学が決まっているのだが、本当にこんな調子で生きていけるのか不安がある。それ以前に今の大学でレポートやテストをやらなくてはいけないのに、一週間引きこもってこんなものを書いている場合ではないのに。まぁこれを書いたおかげで持ち直したのだが。単位がギリギリで、取らないと向こうへの編入に影響があるので深刻な問題だ。あぁ、それに神戸から名古屋への引越しもあるし荷物まとまらないし、困った。

*1:私の嫌いなもの - 私は何を知っているか?

*2:死別に対する情緒的反応で、社会的に重大な機能不全を起こす症状を見せる。精神障害として登載するか検討中。

My will (or something instead of suicide note)

ここ数年、誕生日には死のうと思っている。これほど絶望する日もないからだ。たくさん寄り道をして、進んだり戻ったりゆっくりゆっくりやってきて、もう25年も生きてしまったのだ。ぞっとする。なんて無能なんだ。あきらめてはいけない、へこたれてはいけないと自分を奮い立たせてやってきて、比較的順調なときは上手くできているような気がしていた。思い込みだった。また、投げ出したのだ。

全てを投げ出し諦めることで少し楽になった。この部屋に引き篭もって何日過ぎたかな。14日の金曜日からか。15日経った。確かに激しい感情の波から少しだけ遠ざかって穏やかではいる。
とても悔しいけど目標を捨てた。もう会いたい人にも会えなくなる。行きたいところを見て回ることもできず、美味しいものも食べられない。だが仕方がない。自分で、生きるのを諦めることにしたのだから。生きることの方が辛いんだからしょうがない。

私は私の、あまりの人間関係の築け無さに絶望したんだ。


人とうまくやっていく、人間関係を良好に保つということは、生きていく上で非常に重要な要素だと思う。全てとは言わないが、これをどのように行えるかがその人の生き方に大きく関わってくると言えよう。なぜならば一つには、人間が社会的動物であるということであり、本質的に他者からの承認を欲求していることがあげられよう。孤独であることに自身が対処できなくなったとき、精神的に悪い影響を与え、鬱などを引き起こすという生理的な問題である。これには性格的な個人差もあるだろう。

もう一つは、昨今就職に当たってもコミュニケーション能力を問う声が非常に大きく聞かれるように、社会という共同体に参加するために必須の資格であるからだ。仕事での意思疎通はもちろん、遊びやスポーツ、趣味の世界や、日常の生活、例えば買い物したり食事をしたりという時にすら、それを円滑に行えることが、有利に働くことは間違いない。互いに多くの情報の交換が可能になれば、様々な判断をより確実にし、新しいものもそこから生まれる。経験を通して学んだものはより実践的であり、人を成長させるのに大いに役立つが、多くの経験はコミュニケーションを通してもたらされる。単純に多くのものと触れ合う機会が広がることは楽しいが、一方でそれがうまくできない場合には、この世界で弱者の位置に成り下がることを意味する。

私の場合は、長くこの問題に直面し悩んできた。記憶のあるところを辿ると最も古いところで幼稚園の年中組の頃まで遡る。当時から、なんとなく群れ合う者たちの輪に入っていけず困った。共通の話題や感覚をあまり持てない、そういうことは誰しもあろうが、そういう時に自分の感情を理解する言葉が出てこなくて軽いパニックを起し中身のない適当な反応でごまかしていたように思う。

小学校に入ってもそんな調子だったが、今でもざっと記憶にあって出て来るのは教師に怒られたことだったりする。それも自分の状況をいつまでもうまく説明できなかったり、自分の態度が思ってもいなかったように受け取られて反感をかったために理不尽に怒られたような、言い返せなくて悔しかった記憶だ。今でも内心と無意識のうちに出る非言語的メッセージとの不一致で誤解を招く場面があるような気がする。
高学年になると半ば人付き合いにあきらめが生じ、とりあえず勉強ができれば将来なんとかなるんじゃないかと思っていたところがある。班長とか学級委員とか、そういったものはよくやっていて嫌いではなかったがやはり人をまとめるのには苦労した。修学旅行のようなイベントはナーバスになって当日行かないようなことがあった。

中学でも成績は優秀で生徒会役員なんかもやったような気がするが、3年になると思い悩んで不登校気味になった。卒業式の後なんかろくに話す人もいなくて一人で隠れるようにして帰ったような気がする。
高校は入って直に辞めた。

思い返せば散々なそんな性格にも関わらず、接客の仕事が好きでやっていたのは今の状態で考えると信じられないような気もする。人前で説明したり教えたりするのは好きだし、興味を持った分野の知識を入れるのは得意なのでセールストークでカバーしているのだろう。誰よりもマニュアルを読み込んできて、その場での対応はうまくやれる自信があるのだが、継続的な人間関係が築けなくて壁にぶち当たる。


2005年の愛知万博があって、それから感情の波も上下動したけど、なんとか前向きにやってこれたかなと思っていた。大学で何人か素晴らしい人たちと出会った。話のできる人、相談出来る人もできたかな、と思ってた。違ったらしい。俺がペースを崩すとやっぱりみんな離れて行ってしまう。

自分では何なのかよくわからないのだけど、俺が対人関係においてどうやら問題を抱えているらしいことは周りの人の反応を観察してわかっているから、なんとか自分を変えようと、人に聞いたり自己啓発の本を読んだりして必死にやってきたのにな。距離感や振る舞いを変えてみたり、明るく積極的に話しかけてみたりしても退かれていくだけのようだった。人の顔や名前を覚えたり識別するのが驚異的に苦手なのは良くない原因の一つだろう。よく見知った人ですら髪型や服装を変えられると見分けが付かなくなる。脳の一部が欠損しているんじゃなかろうか。

迷惑かけてまで付き合ってもらうのは俺も嫌だから、それは言って欲しいし、むしろ言ってくれないと何をどうしたらいいのかわからなくて、近い人には頼んでもみたんだけど、結局付き合いきれなくてみんな黙って避けるようになっていく。俺が遠慮して話さないようになったら、案の定もう誰も話しかけてもこない、メールも一切コンタクトをとってこない。それは友だちだとか言ってたのはやっぱり嘘なんじゃねーかと思う。それなりに今まで話してくれてたのも一体何だったんだろうかと思う。誰も俺のことを心配する義務なんてないし、こんなこと自分で言うのも情けなくて嫌だけど、見捨てられたんだと思っている。面と向かったら適当なこと言うくせに、実際は誰一人、俺に関与したいと思ってなかったってことだもん。

「みんなが応援している」って何なんだろう。それだったら俺だってみんなを応援しているよ。誰の不幸も願ってなんかはいないよ。みんながうまくいけばいいと思っている。それは応援か?ただの願いだ。何ら行動を伴わない、口だけだったらいくらでも言えるよ。いや待て、口ですら言っていないじゃないか。言われなきゃわからないよ。口にもせず思っているだけじゃ存在しないのと同じだよ。察しろ?感じ取れ?無理だよ!俺が深刻に困っているのに直接声をかけにきてくれた者は誰一人いないよ。そしてこちらから相談を持ちかけた人は2度目3度目には避けていくか、メールなら無視。迷惑だとすら言ってこないのね。

口で言えばそれでいいのかってことだけど、少なくとも明確に口にしたのであれば、嘘だったとしても嘘をつく意思があったのだろう。罪悪感も伴うだろう。それですら面倒だ、関わりたくないと思って無視という最大の他者への拒絶表現を選択したのならば、そのことを自覚するべきだ。本人のいないところで勝手なことを思って実際には何もしていないのに、いかにも自分は理解ある人間だったみたいな顔をするなよ。

やめよう、こんな話は。非難めいたのはよくない。


発達障害について

発達障害についての本*1を読んだ。有病率調査によって1%〜10%程度いると言われる発達障害*2とはどんなものか、周りの人はどのように理解し接すれば良いのか、ケースを上げ大変分かりやすく書かれた本であった。

この本で特に取り上げられているのは、包括的な概念である軽度発達障害の一つ、広汎性発達障害(Pervasive Developmental Disorder)(定義により、ほぼ同じ概念の自閉症スペクトラム障害(Autistic Spectrum Disorder))、そのうち言葉や知的発達の遅れがないものを指す、アスペルガー症候群。特にアスペルガー症候群は一見普通に見えるので問題の発露が遅れ、そのことが却って高度なコミュニケーションが求められる社会に出るようになって顕在化することがあるという点で注意が必要である。

「ちょっと変」に見える人をPDDの視点で見分けるのに、3つのポイントがある。

  1. 社会性はあるか?
    他人とうまくつき合えるかどうか。場の空気や間を文脈に沿って理解し、他者とコミュニケーションが取れるかどうか。
  2. 意思疎通はできるか?
    言葉や表情、身振りを使って他人と意思疎通が取れるかどうか。
  3. 想像力のズレや強いこだわりはあるか?
    状況に応じて他人の考えや気持ちを推し量ることにズレが生じやすい傾向がないか。その結果、柔軟な行動が取れず、物事に必要以上にこだわる傾向がないか。

備瀬 哲弘 2009『大人の発達障害アスペルガー症候群、AD/HD、自閉症が楽になる本』

これらはPDDに共通する軽度の特徴であり、当てはまるからといって即座に診断基準となるわけではない点にも注意したい。

私は相変わらず簡易自己診断では、かなり高めの数値が出たけど、抑うつ度検査と同じで自己標的バイアスがかかってると思うから正確なところはわからない。しかしこの本を読みながら自分の性格を振り返ってみると、紹介された事例にも多く当てはまる特徴があることに気づいた。例を挙げてみると、

  • 感覚の偏り:特定の刺激に過敏、又は鈍い。
    特定の光や音が不快でたまらなかったり、皮膚感覚が気持ち悪かったり。そして疲れに鈍感なことも多い。
  • バランス感覚を使った運動の不器用さ
    ジャンプやスキップが不得意だったり、リボンを上手く結べなかったり、球技は得意でない。相手の動きを予測したプレイや、バスケやサッカーのフェイントも難しい。
  • 遠まわしな表現や比喩表現がわからない、冗談が通じない
  • ごっこ遊びが苦手


私の場合は、何かのめりこみだすと止まらないところがある。ネットで調べ物を始めたら次々にページを開いていって十数時間食事もとらずぶっ続けで見ているようなことがよくある。多少の疲れはどうでもよくなってこれを見終わるまではという義務感が強くなる。一旦終えると睡眠が長く起き上がれなくなって生活のリズムを崩す。レポートを書くときでも徹底的に資料を読み込んだ後でないと漏れがあってはいけないという意識が働く。

一度自分で立てた計画が順番どおりに終わらないと先に進めない。優先順位に応じて組み替えるのが苦手。荷物がやたら多い。必要になる可能性のあるものは全部持ち歩かないと不安で鞄が一杯。収集・整理・分類好き。

大勢の前で話したり発表するのは好きなのだが、極度の緊張で全身汗びっしょりになる。落ち着いてやればできるのだが、不測の事態に落ち着くことそのものが難しい。

走るのはクラスでは速いほうで陸上もやっていたが、球技はからきしダメだった。小学校のときに野球部に入ったが、最初はどう体を動かせばいいのかわからなくてキャッチボールすらできなかった。度々あらぬ方向に暴投。バッティングも相当みっちり形を叩き込まれたが、ぎこちなくてロボットみたいだと言われた。サッカーも球を持ったらどう動いて、どのタイミングでパスやシュートを打ったらいいのかわからない、当然フェイントなど全くついていけなかった。

関係ないかもしれないが、コンタクトレンズが全く入れられない。眼球が触れることを拒否する。店で目を真っ赤にして何十分もトライしたが一度もちゃんとはめることができなかった。

スポーツもそうだが、音楽も全然わからない。リズム感がない。音階が分からない。幼いときにピアノを数年習っていたが正直あんまり楽しくなかった。アドリブや協和音で弾くときは何がよい音なのか分からず、先生の顔色を伺いながらやっていた。

昔の彼女が文学的な表現が好きで比喩を使うのに、たまに意味が分からなくてついていけなくなった。特に喧嘩のときに比喩で自分の行為を非難されると、意味を理解してそれが妥当なのか詭弁なのか判断するのにすごく時間がかかってパニックになった。

人の顔を覚えるのが苦手。非言語的なコミュニケーション(表情・ジェスチャー)を読み取るのが苦手。察したり、暗黙の了解がわからない。言葉を額面通りに受け取る。

上記は比較的経度に留まっているのものもあるが、周りの人間の反応が気になって羞恥心が強いのも問題だと思う。一方で自我が強くて譲らないところもある。セルフモニタリングが高いのか低いのかどっちなんだろう。


ところで、私はある人にずっとこだわり続けていた。彼女は賢く、知見も広く、気が利いて、多くの人に好感を持たれているので、私は尊敬している。ある時まで彼女によく話を聞いてもらっていたし、私も彼女の悩みや何かを聞いていた。私の一番の理解者だと思っていたし、長時間電話やメールをすることもあった。だがある時から電話に出てくれなくなった。もう2年以上前のことである。最初は忙しいんだとか疲れてたんだとかごまかされていたが、会った時には普通に話していたし、メールもぐっと減ったがたまには返してくれていた。でも明らかにそれは俺を避けていたんだと思う。当時は問い詰めても決して認めることはなかったが。

俺への評価が下がっていたのは間違いなかったが、それでも俺はあきらめなかった。今年になって、二人で会って話はしないし、メールも返さないと宣言された。俺が依存するかららしい。理由になっていない。何故なのか俺は繰り返し質問を変え問い続けたがそれに対して真っ当な返事はなかった。この時も理由にこだわり続けた。彼女の口から少しでも、止めて欲しいようなことが言われればそうしなければいけないと思ったが、何しろ彼女からの接触はしないと言われただけで、どう思っているとかそういうことは一切語られなかった。客観的に見れば屁理屈じみてて病的だと思われるかもしれないが、俺からすれば以前と比べて俺の言動が特別変わったとは思っていなかったし、何故そのように言われなければいけないのかわからなかった。俺の性格では彼女の心境を想像するのは理解の範囲を超えていたので、わかるように説明してくれと頼んだが聞き入れられなかった。俺のことが嫌いになったのかと問えば、そうではないと言われた。メールは着信拒否はされなかった。俺には全く不可解であった。

そんな状態にまでなって俺が何を送っていたのかと言えば、何でもない日常のできごととか、彼女が興味のありそうな話題を見かけた時にそれを知らせたり、俺のその時考えていることだったりした。悩みを解決して欲しいとかじゃなくて聞いてもらえればそれでよかった。彼女なら俺の話す内容を理解してくれると思っていたし、見てくれているのかどうかさえもよくわからなかったが、俺には他に話し相手がいなかったから、もしかしてでも見てくれていたらそれでよかった。世の中の人がメールでどんなことを会話しているのか俺には想像が付かないが、大方似たり寄ったりなんじゃないかと思う。返事もないのに送り続けるようなことは他の人にはしなかったから、それが多少なり異常なことはわかっていたが、それ以上拒絶もされなかったから好意的に解釈する他なかった。

まだつい最近だが、突然もうどうでも良くなった。そう思い立った前の日には、偶然他の人と一緒に彼女にも会って少し話し、その日もメールしていたのだが次の日には気が変わった。その日のやりとりも、何だかそれまでとずーっと一緒で進歩がないな、とようやく思い立ち、いつまで俺はこんなことを繰り返すんだろうと急に無情になったのと、もう死ぬんだから関係ないや、という諦めでもあった。

こうしてここに書くのももし彼女の迷惑になってはいけないとずっと考えていたが、俺が悪いのがはっきりすれば彼女の名誉は守られるか。人とろくに付き合いがないから精神的に未熟なままで、だからこんな年になっても聞き分けのない子どもみたいなことを言っているのだろうか。



今初めてぶち当たった挫折じゃなくて、私はずっと自身のこの問題と闘ってきた。こういう悩みは一人で考え込めば考え込むほど深みにはまっていく。だからこそ近年は、なるべく人に話そうと努めてきた。*3かといっていきなり親しくない人に身の上話を聞いてもらうわけにいかないし、自分の内面を打ち明けることへの心理的抵抗もあったから、なかなか思うようにはいかなかった。話したとしても、以降遠ざけられてしまうようなこともあった。今までの私の交友関係のあった場、学校、職場、ネット、どこでだって良い関係を残せている人はほとんど存在しない。気まずくなって苦い思いばかりが残っていく。今の大学には愛着があるしここの人達も私は好きだけど、ここを出ても関係の続く人なんていないんじゃないか。それはとても寂しくて悲しいことだ。

もう最後のチャンスかなと思っていたんだ。前の学期に復学して単位も上々に取れた。今学期も継続して英語に力を入れて、夏から次のステップに進む計画だったんだ。自己のストレス耐性を見るテスト期間でもあったけど、人間関係の不安定から破綻してしまった。

もう引き返せないところまで来たよ。今週は英語の中間試験なんだ。他の科目も直に欠席数でアウトになる。全教科落第決定だね。もともとこの大学にいるのもこの学期までと決めてたけど、予定より早くなってしまった。



この社会は私が生きるには厳し過ぎた。いや、俺があまりに弱すぎた。母親だけが気違いのように心配している。そして経済的な面を中心に親には依存しきっている。全部裏目だ。親を悲しませないためだけに生きていくのか?俺の人生がこんなに苦しいのに?

死ぬしかないと思っている。むしろ死なねばならないと思っている。一日長く生きれば生きただけ、周囲に迷惑をかけて困らせることになるだろうから。早くけりをつけて忘れてもらったほうがいいのだ。どうせ全ての人が俺のことを忘れるのに長く時間はかからないだろう。遺伝子的に弱い残念な人間だったのだろう。淘汰されたほうが人類のためだ。



ふう。ここ数年、布団の中に入って考えごとをする度頭の中を巡っていたことが、やっと言語化できた気がするよ。書き留めたところで、俺のことを知りたい人なんていやしないんだろうが、理解してもらうためには説明しなきゃとずっと思っていたからこれで少し肩の荷が降りた。うまく伝わるか、伝わったところで理解を得られるのかは疑問だが、俺は満足だよ。俺のやるべきことはやった。悲しいけどこれが俺にできる限界だ。

もうしばらく、本でも読もう。まだやれることがあるからね。

*1:備瀬 哲弘 2009『大人の発達障害アスペルガー症候群、AD/HD、自閉症が楽になる本』

*2:2002年文科省が小学校、中学校で行った調査では「通常学級で知的発達に遅れはないが、学習面や行動面に著しい困難を示す」と担任教師が回答した児童生徒は6.3%。前掲書pp.38-39

*3:話す相手がいることの重要性 - 私は何を知っているか?

期末テスト終了

前回更新してから調子悪くなって週末まで休んでしまった。病院にも行けず。ああ、これはまずい。どうしようと思ったが、先週からのテストはなんとか自分を無理矢理引きずり出して出て行った。ここでまた最後のテストだけ出ないという過ちを繰り返したらもう俺の人生終わりに向かっていくだけだと思っていたから。わりかし本気で。

そして全部終わった。乗り切った。あとは細々したレポートがあるけどまぁ大丈夫だろう。


しかしすっきりしない。根本的にこの息苦しさは誰かと話しないと解消しないんだろうな。大学に行っても無視されるか避けられるかばかりでストレスが溜まるばかり。当たり障りの無い風に過ごすのでどっと疲れるよ。


春休み恐い。無為な時間を過ごしてしまいそう。

とりあえず宅建登録講習があるや。1ヶ月前から自宅学習用の分厚いテキストが送られてきてるが相変わらず手をつけていないという。。。



そういえば単位互換で隣の大学で取っている医事法のテストが普通に法学部水準の問題で焦った。まあ面白かったから良いか。図書館に判例を調べに行って民集最高裁判所民事判例集)とかをせっせとコピーしていた。たまたま目に入った目的の判例の隣のとかが面白くてついつい見入ってしまう。モリサワの「新ゴ」は写研「ゴナ」のコピーだ、と言って、印刷用書体の著作権について争った裁判。*1判例集の中に書体見本も収録されていてかなり異色。運転免許証の更新で軽微な違反があるとされ(後に取り消し)いわゆるゴールド免許を交付されなかったことについて取り消しを求めた裁判。*2こんなのも裁判起こさないとどうにかできないんだからおかしな話だよ。

みんな素晴らしいね

学内で行われた学生プロジェクト成果発表会を見に行った。

あんなに元気にイキイキとしてる彼らは普段の授業で見ている姿からは想像が付かない。あんなにいろいろなことを頑張っている人たちがいるとは知らなかった。プレゼンはもちろん、後で他のチームにお互いにコメントしたり助け合ったり。3年前では考えられないこと。すごく立派になってた。びっくりした。

個々を見ていくと、実現可能性やクオリティの低いもの、プレゼンの説得力、まだまだブラッシュアップできるものはあるんだけど、彼らの成長力を見ているとポテンシャルは相当に高い。一部は学外に出しても恥ずかしくないレベルに達してる。

街に出て企業や地域の人と交流したり、みんなで何かのイベントをやったり。伝えたり、動かしたり。ただの学生のお遊びじゃない、社会と関われることを。俺はこの大学ならきっとこういうことができる、やりたい、と思ってここを選んできたんだけど、結局今までどこにも属せていないし、ずっと一人なんだ。だから俺はうらやましく思って見ていた。みんな素晴らしい。

友達は大切だ。やりたいことがあっても一人じゃ何もできないから。一人でそこそこの物を作る自信はあるけど、束になってかかってこられたら勝てる訳ないもんね。

なんだか俺はもうこの場にいる自分に意味が見いだせなくてなってきたよ。それは2年前には気づいていたことだけど、だんだん確信に変わりつつある。そしてそれは環境のせいではなく、この場でできなかったことはおそらくどこへ行ったってできないんだろう。



自分のことを、友達いないとか、引きこもりだとか、冗談めかして言うやつがいるんだけどさ、あんたら話できる人いるだろ、呑みに行く人いるだろ。俺が聞いてもイラッとするのに、本気で引きこもっておられる方からしたら怒られるよ。引きこもってても友達いたりするからな。。。なんだかんだ言ったって人は一人なんだよ、なんてよく言われるんだけど、一人の時間の大切さや自分の行動に責任を持つのは自分だってことはわかってるよ。問題は常に一人ってことだよ。そんなこと言ってあんた、友達関係を維持するのに結構苦労してるだろ?俺は維持する友達もいないよ。友達は作ろうとするんじゃなくて自然にできる、ってもう聞き飽きたよ。俺が聞きたいのは一般的な話じゃなくて、一般的な人とそうじゃない人で何が違うのかだよ。お願い、気づいて!



こういうことを書いていると何人かはうちの大学の人間が見るんだろうけど、ネット・リアル問わず何かコメントしてくれた例がないもんね。メンヘルには決して近づかず、遠くから眺めるのみですか?ミクシィで明らかに別アカでしょっちゅう見に来る人とかほんとに恐いんですけど。どうも、こんにちは。予想通りだった?意外だった?